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読書記録(1)『これからの時代を生きるあなたへ』上野千鶴子

おはようございます。やっとお正月ボケが治り、朝型の生活リズムが戻ってきました。
朝は寒いけど、静かで気持ちが落ち着きますね!

今日は読書記録です。
理系の大学を経て技術系の会社に入社し、育児をしながら社会人を10年以上経験したことで、女性としての生き方やマイノリティについて考える機会が多かった私。
この本を読んで、あぁ先輩たちも似たような悩みを抱えていて、声をあげて社会を変えてきてくれたんだと勇気づけられました。

読んだ本はこちらです。

『最後の講義 これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会をつくりたい』上野千鶴子


Like a single(あたかもひとりもののように)

男は、家を出たとたんに、あたかもひとりものであるかのように、つまり家族も子どもも、家事・育児の負担も何もないかのようにふるまってきました。ところが、家庭責任を背負っている労働者たち、つまり女性たちは、職場の昼休みに、「今日の晩ご飯は何にしようかしら」って考えながら働き、冷蔵庫の在庫を思い浮かべ、昼休みについでに買い物を済ませるようなひとたちです。

『これからの時代を生きるあなたへ』

男女雇用機会均等法により、女性も男性同様に外で仕事をする人が増えたけれど、それでも根本的には同じじゃない。女性は家事育児負担を背負ったまま、それに加えて仕事も担っている。
それがどういうことなのかを、とても分かりやすい例で表現されているなと思った。

こういうことが起こる根底には、当事者意識の違いがあるんだろうな。
つまり、自分が何とかしないと家庭が回らなくなるという危機感があるかどうか。
当事者意識が薄いと、点でしか家事育児を考えない。

たとえば、
おむつ交換をしてお世話セット(育児グッズをまとめておく箱)にオムツの残りが無くなったとき。
当事者意識を持っている場合(線で育児を考えていれば)、ストック置き場からオムツを補充して、買い物リストにオムツを追加する、ここまでで一度のオムツ交換が終わる。
一方、当事者意識が薄い場合(点でしか育児を見ていない)、交換しておしまい。次のために補充するとか、残りが少ないから買い忘れないようにしなきゃなんて考えつかない。
(些細なことだけど、毎日のことだし、24365勤務の育児ではこういったことの積み重ねが、ボディーブローのように効いてくる…)

積みすぎた方舟

女は、女であるというだけでは、依存的な存在ではありません。けれども、依存的な存在を抱え込むことで、自らが依存的な存在になります。

『これからの時代を生きるあなたへ』

自身は依存していない(一次的依存ではない)が、子どもをケアする役割を負うこと(二次的依存)で、自分自身も依存的存在になっているという解釈。

上野先生がこの状況を「積みすぎた方舟」と表現した理由は以下。
核家族社会において、育児や介護を家庭内に閉じ込める構造には、無理があるとのこと。

近代家族がスタートしたときに、ケアという市場の外部にある負担を、何もかも全部家族に押し付けたからです。「家族」といっても、昔の大家族じゃなくて夫婦と子どもから成る核家族ですから、そこには成人の女がひとりしかいません。たったひとりの女が、すべてのケア負担を背負い込んだことを、わたしは「積みすぎた方舟」と呼びました。つまり近代家族は出帆したときから、早晩、座礁が運命づけられていた、ということを、ここでいいたかったわけです。

『これからの時代を生きるあなたへ』

ひとことで「家族」といっても、

  • 昔は、祖父母も同居していて、親が仕事をしている間は祖父母が子育てをしていた。地域のかかわりも密接で子供を近所に預けたりもしていた。

  • 今は、親と子だけの核家族で、地域の関りも希薄になり、親以外が子どもをみることのハードルが(心理的にも金銭的にも)上がっている。

家族の形は時代と共に変わっている。

それでも女性たちは「みんなそうしてきたから」「できない自分の頑張り不足だ」と積みすぎた方舟を必死に漕ぎ続けてしまう。
「母親だったらなんでも乗り越えられるはず」という見えないプレッシャーに押しつぶされそうになる。
声をあげて、助けてといえるにはどうすればいいのだろう。
声をあげづらい社会で、自分は何ができるだろう…。

ケアの社会化

ケアを社会化することが必要とのこお。
介護保険はケアの社会化の第一歩。

女が、家で自分ちのばあさんの世話をしたら、ただ働きです。隣のばあさんの世話をしたら、カネになる。ひとりずつ隣に動いたらいいんじゃないかと思ったぐらいです。

『これからの時代を生きるあなたへ』

これは刺さる!同じ介護でも、自分ちだとお金にならないどころか感謝もされない(当たり前のように扱われる)、それを指摘する言葉。

上野先生の言葉って、分かりやすいだけでなく、自分も思ってたけど上手く表現できていなかったことを切れ味鋭く代弁してくれるから、読んでいて気持ちいい~。

ケアのアウトソーシング

ケアのアウトソーシングには3つの選択肢がある。
ざっくりと書くと、以下のとおり。

①市場化(稼いだお金でシッターさんを雇う)
②公共化(保育所など公共サービスが整備され、それを活用する)
③平等主義家族(夫婦で半分ずつ分担する)

世界各国がそれぞれの方針を実践し、
①:アメリカ
②:欧米
③:日本・韓国
効果は出生率で図ることができるとのこと。

結果は、

②公共化 > ①市場化 > ③平等主義社会

このことから、社会や第三者と共にケアしていく方が、効果(出生率)は高いことが分かる。

うちはほとんど③で凌いでいるなぁ。(凌ぐ、という表現がぴったり)
狭い「家族」のなかでやりくりするので、いつも余裕が無い。

「助けて」と言い合える世界

これからの日本は、どうあるべきか。
これから社会に出ていく学生たちに向けて、上野先生が贈った言葉。

あなたの恵まれた環境と能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。
そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
強者はずっと強者のままでいられないからです。
強者もかつては弱者だったし、いずれは再び弱者になります。
だとしたら、わたしたちが欲しい社会はどんな社会でしょうか。
弱者になった時に「助けて」といえる社会、「助けて」といったときに、助けてもらえる社会です。

2019年 東京大学 入学式祝辞

人はみんな「弱者」だった。そしてまた「弱者」に戻る。
社会に出る20歳前後の頃って、時間も体力もスキルも希望もあって、自分でなんでもできる気がする。
それは素晴らしいこと。
でも、それは自分一人の力じゃない。
そういう自分になれたのは周りの人たちの支えがあったからこそだし、
希望ある社会があるのは、先輩たちが少しずつ声をあげて、制度や風土を変えてきてくれたから。
だから、自分の今ある力を自分だけのために使わない。
先輩方の意思を受け継ぎ、次の世代へ引き継いでいく。
それは、いつか必ず「弱者」になる自分のためにもなる。

これは完全に個人的な印象だけれど、
今って選択肢がたくさんあって、それぞれを認め合う社会になってきている(いわゆる多様性)。それはとても良いことだと思う。
でも、その分、なんでもかんでも「自己責任論」になってる気がする。
「自分でその選択肢を取ったのだから、その結果起こることも自分で対処しないといけない」みたいな。
(気のせい?)
そうすると、どんどん社会から孤立して助けてと言えず、核家族の中に問題と共に閉じこもってしまうようで、とても怖い。孤独。
そうではなくて、それぞれの選択をしたけれど、みんなで出来る範囲で助け合っていける社会だったらいいなと思う。
社会というと規模が大きすぎるけれど、まずは、「ちょっと手伝って」とか「今これで困ってるんだよね」とか、周りから声をかけてもらえる人で在りたいなと思った。


この本を読んだのは実は3ヵ月ほど前ですが、
普段は学術的な本をあまり読まない自分でも、ページをめくる手が止まらなくなり、一気読みしました。
それほど今の自分にマッチする本だったのでしょう。
記念すべき読書記録1つ目としてぜひ残したいと思い、noteの記事にしました。
決して読みやすくないと思うけれど…アウトプットすることで自分の身になるし、「こうしていきたい!」というちょっとした決意表明もできたので、めでたしめでたし!です。

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