見出し画像

アートと非言語がたすけてくれたこと

13ヶ国32名の参加者が学び合う私たちのグループは、小さな地球のようなダイバーシティ。英語でコミニケーションをしていても、アクセントが多様すぎて、実は互いに(ネイティブさえも)よく理解できていなかったりする。

最初の1週間は、ほとんどパニックだった。自分が何を理解できていて、できていないのか。目の前の違う国から来た人とは、どこまで何を共有できて、できないのか。私はこのグループにいて、安全なのか...。

同質性の高い日本社会で暮らしてきた私にとって、共通言語の少ないダイバーシティ環境は、これまでに感じたことのないストレスを感じる場だった。何が飛び出してくるかわからないジャングルにいるみたいだ。集まっているのは意欲があり知的レベルが高くて人に優しく、Lovelyな人ばかりなのに。

週に一度のアートクラス

緊張感を緩和してくれたのは、週に一度、午後に行われたアートクラスだ。自分の内側に目を向けて、浮かんだイメージを自由に描き出したりする。

画像1

無心になって手を動かしていると、凝り固まっていたものが解けて、素の自分に戻れた。描いたドローイングを互いに説明しながら鑑賞しあえば、相手の心の柔らかいところをのぞかせてもらえたようで、ぐっと親しみがわいた。

また別の日、教室の床一面にカラフルなガラクタや創作素材が置かれて始まったパペット制作は、大いに盛り上がった。

画像2

創作されたパペットからは、互いの新たな一面を発見できる。そして、なにせつくっているのがパペットなものだから、完成したパペット同士で次第におしゃべりがはじまった。パペットを介すと、普段話しかけない人とも気軽に話してみようと思うから不思議なもんだ。しまいには、ギターを持ってきていたトーマスが、即興で歌をつくって歌いだし、大合唱がはじまった。

”Everybody need a name〜♪  What’s your name?”

私たちが創作した、私たちの歌。歌い出したクラスはもはや幼稚園と化して、講師は少々あきれ顔。ストレス発散ぎみに、がなるように歌を歌うみんなの顔が、小さな子どもに見えてきた。画像3

アートは身体、魂、そしてフロー状態から生み出されるもの。言葉や理論とは異なる感覚を積極的に動かした時間は、クラスに新しい風を連れてきてくれた。そういえば私たちはみな、かつては小さな子どもだったじゃないか。そう思えた時から、連帯感や共犯関係が芽生えてきたように思う。

あえて言葉にしなくてもいいこと

時には、ボディランゲージが言葉よりも雄弁だ。

グループ対話の中で、どうにも拭えない違和感を持ったのは、対話がいきづまると、手を繋いで輪になって歌ったりしてフィナーレを迎えるのが、いつしかパターン化していたことだ。

私には、対話で消化しきれなかったコンフリクトの気まずさを、手を繋いだり歌ったりするピースフルな所作で誤魔化しているのではと思えた。

そんな自分の違和感を言い出せば、なんの疑いもなく手を繋いで楽しく歌っていた人は困惑するしかないだろう。けれど、多文化主義の中では、違和感は表明しなければ、なかったことになってしまう。

小グループの対話の時間に、思い切って自分の違和感を打ち明けたとき、となりに座っていたキースは、何かを短く話して、その後、じっと私の目を見た。アメリカ人のキースにとっては理解し難い意見だったとは思う。でも彼は、同意も否定もせずに、ただじっと私と目を合わせていた。キースはそうやって、ただ意見の存在を肯定してくれていた。

画像5

後日、受講していた週末のクラスで、手をつないで輪になるシーンがやってきた。なんとも皮肉なタイミングである。

違和感を表明していた私にとっては、「ひゃー」だ。しかし流されやすいのが日本人の本領。なんとなく両隣と手をつないでしまった私は、困まり顔をしていたと思う。すると、たまたま左隣りだったキースが、子どもを諭すように私の手をぎゅっと握ったのだ。見上げると、素知らぬふりをして、こっちを見ない。ただ、キースの所作は、私と、「手をつないで輪になるなんて、コンフリクトの消化不良を誤魔化しているようで、なんか気持ち悪い」という私の意見の「存在」を、ここでも肯定してくれたのだ。

身体のみで行うグループ対話

2週目にアシスタント講師をしてくれたノラは、プロフェッショナルダンサーでもある。彼女の企画で、実験的に言葉を使わない身体表現でのグループ対話をする機会があった。

画像4

対話に参加したのは15名ほど。通常のプロセスワーク心理学が行うグループ対話(World Workという名がある)と同様に、ノラの言葉を使わない対話も、まず部屋の中にふたつの極となる意見の場所をそれぞれにつくる。このときの議論の極は、「人と積極的に関わりたい人」と、「一人の時間を大事にしたい人」とした。

参加者はどちらかの極に身を置いて、それぞれの意見を身体で表現する。一度選んだ意見から、対話の途中で立場を変えてもいい。部屋の中でどう動きたいかは、参加者に委ねられている。

対話はたしか20分ほど。まるでサイレントの即興演劇をしているかのようなグループ対話で、当初思っていたよりもずっと展開や動きがあった。

体と心の感覚を身体で表現することで進んでいくグループ対話では、対話のプロセスで自分の感覚がどう揺らいでいくのか、両極の意見が自分にとってどんな意味をもつか、明確に味わえた。通常のグループ対話では、言葉の洪水を情報処理するのがやっとだった私も、対話の世界に没入することができたように思う。

その後、参加者それぞれの感覚が場に共有されると、両極の意見が持つ深い意図にアクセスでき、深みがあった。言葉を使わない対話の可能性はまだまだ探求する価値がある。

共通言語がなければ、「人間」にもどること

コミニケーションにおける常識や儀礼は、文化がつくりあげてきたものだ。文化は共通の言語や体験の多い共同体の中で醸成される。しかし、共同体から離れたダイバーシティでは、常識がなにかを定義することさえ難しい。けれど、人間は慣れていたり自分と同じだと感じるものやことに安心する生き物だ。

文化的な事柄の中で共通項を見つけられないとき、魂を表現するアート、描いたりつくったり身体で表現したりすることが、助けになった。

理解しあうより、感じあうこと。感性のチャンネルがダイバーシティでのコミュニケーションの鍵といえる。

画像6

ここから先は

0字
このマガジンはほとんどを無料で公開します。私の学びに共感してくれた方は、マガジンを購入して、今後の学びを応援いただけると嬉しいです。

世界13ヶ国から集まった32人の仲間と、5週間をかけて学んだ、ダイバーシティグループで起こるコンフリクトと変容。そこで得た体験や気づきをシ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?