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【連載】随想録 第1回「相撲と野球、少年の夢」 - ほぼ月刊「庄内わぐわぐ随想録」

皆さま、こんにちは。阿部彩人です。私は1980年6月、山形県酒田市の平野部にある北平田地区の農村集落・漆曽根に生まれ、高校卒業まで酒田で育ち、大学進学から上京。社会人時代まで含め19年ほど東京で暮らした後、2018年に酒田市八幡地域大沢地区の地域おこし協力隊としてUターンし同地区に移住しました。現在は43歳となり、大沢地区で集落支援員と合同会社COCOSATOの代表として活動中です。高校時代までは「何も無い」田舎だと思っていた酒田。とにかく早く都会に出たい少年だった私が、自ら庄内に戻り「わぐわぐ」が溢れる日々に至るまでのストーリーについて、随想し紐解いていきます。
 
私は、今は無き北平田小学校(現・平田小学校)に6年通いました。小学2年の時、相撲好きだった祖父の影響で、酒田出身の若瀬川という力士や、藤島部屋に入門して若貴フィーバーを生み出した若花田や貴花田を、熱狂的に応援するようになります。当時の酒田は相撲が盛んで、土俵がある小学校が多く、北平田小のグラウンドにも屋根付きの土俵があり、相撲大会が年1回開催されていました。負けず嫌いだった私は、父親を相手に家の座敷で相撲の猛稽古をした結果、その年、北平田小の相撲大会で学年2位に。ちなみにその時の行司は、4つ上の学年(当時6年)の先輩で、現在は山形県庁職員で「やまがたイグメン共和国」大統領の五十嵐健裕さんでした。

私が小学4年の時に颯爽と大相撲界に現れたのが、頭にシリコンを埋め込んで新弟子検査に合格した小兵力士、舞の海。曙などの大型力士を投げ飛ばす姿に憧れ、私も力士になれるのではないかという夢を抱きました。その年も北平田小の相撲大会で学年2位となり、光ヶ丘陸上競技場の側にあった土俵で開催の酒田市相撲大会に出場することに。1回戦で対戦したのが、当時、泉小学校4年で既に体重130キロを超える巨漢だった窪田清盛君。私は体重20キロほどでしたので100キロを超える体重差で、真っ向勝負を挑みますが、立ち合い一発でブルドーザーに激突したが如く吹っ飛ばされ完敗。その様子は動画をYouTubeに公開していますのでご覧あれ。その敗戦を機に私は、力士になる夢を諦めます。

1990年 酒田市相撲大会の小学4年の部、1回戦の写真。阿部彩人と窪田清盛くんの対戦。

窪田君は中学卒業後に春日野部屋に入門して力士となり、栃王という四股名で幕下まで上がりました。将来を期待されましたが、十両への足掛かりとなる絶好調な場所中に大怪我をしてしまいます。また、春日野部屋から分家独立した千賀ノ浦部屋への移籍を希望するも春日野親方から許されず、24歳の時に自らの意思に反して引退を余儀なくされてしまったことは、とても残念でした。窪田君はその後、千賀ノ浦部屋のマネージャーとして活躍され、現在は滋賀県在住の会社員。小学5年の息子さんが力士を目指しており、2月に初めて両国国技館での全国大会に出場されるそうです。

私は、その後プロ野球選手を夢見て北平田小のスポ少野球に所属し、6年の時には四死球を多発するノーコンのエース投手かつ主将となるも、試合では見事全敗。

北平田小スポーツ少年団・野球に所属していた、小学校時代の試合での阿部彩人の写真。

最後の富士見小との試合では先発投手として現役生活最高の無四死球完投でしたが、6失点。富士見小は最終回のみエース投手の佐藤亘君が登板し、私も打者として対戦しましたが、あまりの豪速球に度肝を抜かれ3球三振。その瞬間、私はプロ野球選手の夢を諦めます。その後、亘君は酒田南高校に進み、1997年に同校が初めて夏の甲子園に出場した時に2年生投手として先発。非常に嬉しかったことを覚えています。現在、亘君は酒田市の「楯の川酒造株式会社」でお仕事をされているとのことです。

その後私は、平田中学校で陸上部の長距離選手に。全校の男子で最も流行していた髪型が、直角に近い鋭い角度の「角刈り」でした。その中学校時代については次回。月1回ほどの連載で綴っていきますので、お楽しみにの~。

おまけ。小学6年の時、北平田小の相撲大会にて行事を務めた阿部彩人の写真。

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