アオミ
”冷えたネックレスをつけて彼の暑さが和らいでいる間は、彼は機嫌がよくなり、その1日はわたしを殴ることはしなかった。”
”そうやって冷蔵庫がキレイになると、彼は機嫌よくなり、その一日はわたしを殴らなかった。”
~本文一部抜粋~
悲しい夢を見た気がする。
でも、どこか心が広くなって、軽くなったような気がする。
ぼんやりした頭で布団から這い出たわたしは、台所へ行き、冷蔵庫の中の冷やしておいた飲みかけのカフェオレをのどに流し込んだ。
ひんやりした感覚が喉を通る。
世界の匂いが蘇る。
でも、やっぱり悲しい夢を見たんだと思う。
カフェオレを飲み終え、雨が降っていることに気づいた。そういえば今日は、初めて好きになった人の命日で、それでおそらく最後に好きなった人の結婚式の日でもある。
準備をして、会場まで行かなければならない。
死んだ人間より、生きている人間のことを考えなければならない。
初めて好きなった人は、なんでも冷蔵庫に入れたがった。
飲みかけのジュース、食べかけの果物、食べきれなかった夕食。
読みかけの本やまだ作りかけのパズルなんかも入っていたりした。
彼によれば、冷蔵庫は帰ってきたら絶対に開けるから、自分があとで思い出したいものを置いておくにはちょうどいい、とのことだった。わたしにはそれがまったく理解できなかった。セミも音をあげそうなくらいに暑い真夏の日には、わたしが誕生日で買ってあげたシルバーネックレスも冷蔵庫に入れた。なんでもひんやりして、身につけるときに気持ちがいいらしい。冷えたネックレスをつけて彼の暑さが和らいでいる間は、彼は機嫌がよくなり、その1日はわたしを殴ることはしなかった。
でもやっぱりわたしは、さっきまで遠い世界に行っていた気がする。自分がさっきまで横になっていたベッドを振り返ってそう思う。
何も普段の日常が辛すぎるからだけじゃない。辛いだけなら、まだいい。辛いだけなら、ただ泣いて当たり散らせばいい。例えばセミのように。例えば冷蔵庫のように。例えば彼のように。
いつまでもそうしてはいられないので、わたしはスーツに着替えて、化粧をして、財布の中身を確認した。それから時計を見た。家を出るにはまだ時間があった。結婚式。わたしは招待客として今日、そこへ向かう。笑顔を作って彼に、おめでとう、と言う。幸せになってね、と言う。でもさようなら、とは言わない。
なぜならわたしたちは。
最後に好きになった人は、とにかく冷蔵庫を空にしたがった。
冷蔵庫の中に野菜が余っていたり、牛乳が余ったりすることが許せない性格だった。
残ったバターも、チューブのすりおろしにんにくも、ワサビも、ピザを注文したときのおまけで付いてきたチリソースも、彼はいつも創意と工夫でそれはもうとても上手に使い切った。そして週末になると冷蔵庫の電源を切り、電解水キッチンクリーナーで時間をかけて熱心に掃除をした。とても念入りに、隅々まで掃除をした。そうやって冷蔵庫がキレイになると、彼は機嫌よくなり、その一日はわたしを殴らなかった。
気づけばわたしは、結婚式会場に訪れていた。
いつの間にかここへやってきた。
いつもそうだ。
わたしは、考え事をしながらでも、その日の予定を、予定された通りに送ることができる。
心と体を切り離して、自動で行動することができる。
あらかじめ予定されていて、順路がわかっていれば、あるいは手順がわかっていれば、わたしはまったく別のことを考えながら体を動かすことができる。
体をこちら側の世界に置いて、心はあちら側へ向かう。
でも戻ってくると、自分がいったいどこへ行ったか分からなくなってしまう。
どこか遠くへ行っていたということしか思い出せないのだ。
でもやっぱり、ここにくるべきじゃなかった。
受付にサインをし、わたしは急にそんな風に考えた。
わたしは片耳が聞こえない。
あの人に殴られたからだ。
何度も頬を殴られ、何度も耳を殴られた。
その力はわたしの抵抗をはるかに超えていた。
いつしかわたしの鼓膜はやぶれてしまい、でもわたしはそのままほったらかしにしておいた。なぜならわたしが病院に行ったら、たぶん彼はまたわたしに優しくするだろうから。
優しくなった分、彼はまた優しくなくなる。
それがわかっていた。
次第に耳鳴りが止まらなくなり、日に日に頭痛がひどくなっていった。
病院へ行ったときには、なんですぐに来なかったんだ、と医者からとても怒られた。どうやら手遅れを通り越して、世界の反対側まで行っているらしい。
つまり、もうわたしの片耳は再起不能だそうだ。
それからだと思う。
わたしが、自分をこちらの世界に預けて、こことは違う別の世界へ行けるようになったのは。
あちらの世界から戻ってきたときは、ひどくぼんやりしてしまう。
でも不思議と、日常の生活がおろそかになることはない。
むしろ、これまでより冷静に、落ち着いて行動できている。
そして何もかもがうまくいっている。
何もかもがうまくいっている。
そして気づけば、タキシードを着た彼がわたしのテーブルにやってきて、今日は来てくれてありがとう、と言った。わたしは、おめでとう、と言った。幸せになってね、と言った。でもさよなら、とは言わなかった。
なぜならわたしたちは、さよならを言うような関係ではないからだ。
そういうことになっている。
こちらの世界では、わたしはちゃんと予定通りのわたしをしてくれる。
だからわたしは安心して別の世界へ行ける。
こちらの世界では悲しいことが多いから。
こちらの世界では、誰かがわたしを殴るから。
こちらの世界では、さよならすら言わせてくれないから。
だからわたしは別の世界へ行く。
わたしはあちらの世界へ行く。
そこならきっと、わたしは安心できる。
わたしを優しく包んでくれる。
どこまで穏やかになれる。
けれど、なぜだろう。
なんだかとても、悲しい夢を見た気がする。
【解説】
ゲスの極み乙女の曲には、けっこう女性の名前のタイトルが多いですよね。『ルミリー』とか『ラスカ』とか『サリーマリー』とかですかね。もう全部いい曲です。この『アオミ』という曲もすばらしくいい曲です。静かな情熱、とでも言うんでしょうかね。クールなのに熱い心の動きを感じます。
いやはや、ゲスの曲は、というか川谷絵音の曲は、それだけで一つの小説が書けそうなくらい中身が詰まっています。ストーリー性がある歌詞もそうなんですが、ちょっとした心の動き、人間の儚さを、一文で書くのがうまい。モテるわけです。
短編のストーリーですか?まぁ、女性の葛藤ですかね。いや、違うな。なんだっけ?(スクロールして読み返す)あー、そうでした。つまり現実が嫌で現実逃避をしている女性が、逃避先のことを全然思い出せないんですよ。 逃避するってことは、逃避先はきっと安心できるはずですよね?安らげるはずですよね?なのに、よく覚えていない。そしてなんだか悲しい思いをした気がする、という。『アオミ』を聴いていたら、なんだかこういったストーリーが出来上がりました。綾坂流の切なさ、ですよ。はい。
まぁ、短編は読まなくてもいいので、曲をみなさん聴いてみてください。とても素敵な曲なので!
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