猫を棄てて、父を放ろう。

 『村上春樹』と名がつく書籍はけっこうたくさん読んでいる方だと思う。

 本人の著書もそうだし、批判本や解説本、ファンブックについても然り。

 村上春樹氏の解説本でよく聞くのは、氏には『父が不在』なのだという。これは何も作中に『父』と名がつくものが出てこないというわけではなく、物語の象徴としての『父』、システムであったりとか、悪の元凶であったりとか。物語を包み込む大きな存在、抗えない構造、などといった認識をわたしは持っている。

 とはいえ、なにも氏が『父』を語らないわけではない。むしろ、父を語らないことによって『父』の存在を明確化させている、とわたしは思う。これは村上春樹氏の常套手段である。『何か』をあえてはっきりさせないことで、その『何か』を語らせる。あるいは際立たせる。もしくは読者に考えさせる。

 これはわたしが小学6年生のときの担任の先生が言っていたことなのだが(1999年くらい?)『もしわからないものがあったら、それがなかったらどうなるかって考えたら答えが近づく』と担任の小林先生は教えてくれた。

 担任の小林先生は、小学生でもわかるように『じゃあ、例えばお金って何だろう?って思ったら、じゃあお金がなかったらどうなるか、を考えてみたらお金についてもっと理解できるよ』と教えてくれた。つまりそれが『何であるか』よりも、それが『何で無いか」を突き詰めると物事の本質につながることが多い。小学6年生にそれを伝えようとした小林先生はえらい。

 小林先生に話をし出して止まらなくなったので、いったん削除して書き直した。

 つまり村上春樹は『父の不在』を書くことで『父』を明確化していた。

 それが今回『猫を棄てる』にて、がっつり『父』を書いている。

 それもけっこう細かく調べて書いており、父親が生前語ったことが資料の文献と違っていたことも発見したりしている。

 父親の外側だけでなく、内側についても焦点を当てて考えている。

 なぜここまで『父』について深く追求したのか。

 ではここでこの『猫を棄てる』についてわたしの小学生のころの担任の小林先生の力をお借りしてみる。つまりこの本には『何がないか』。

 わたしが思うにこの本人には村上春樹『本人』がいないのではないか、と思い至った。

 これまで村上春樹氏本人が書いた著書にはどんな場合には村上春樹氏『本人』が含まれていた。小説にしてもエッセイにしても。あるいは翻訳物にしても。

 つまるところ村上氏は作家であり、作家の本質とはやはり(あくまでわたしが思うには)『自分語り』を生業としているのだと思う。自分の中にあるものを深く深く掘り下げる(村上氏はよくこれを『穴を掘る』や井戸に例える)。作家は当たり前だが、『自分』という存在がいないと書けない。自分と言うものを強く持たないとストーリーは書けない。いや、むしろ『書く』という作業自体が『自分』を掘り下げる作業なのではないか。だから文章と言うものは百人いたら百人違うものになる。

 彼が父について調べ、父についてを語り、それを残すことはやはりそれは最終的には『自分をより深く調べること』なのではないかという気がする。

 だから父について書いた、のではないか。

 わたしがこの『猫を棄てる』を読んだときの感想として『村上氏の話があまり出てこないなー」と思った。でも読み進めてみると氏のこれまでの著書とは違った『村上春樹』を感じた。

 自分についての記述を『空白化』する、つまりあまり語らないことで、より自分のことを掘り下げる。

 ページ冒頭で語られる、猫を棄てに行って、家に帰ったら、猫が先回りして家に帰っており、結局大事に育てることにした、というエピソードなどその象徴なのではないか。

 『猫を棄て』たが、どこかやっぱり『帰ってきてほしい』と思っていた。そしたら願い通り帰ってきていた。失うことで初めてその存在の大切さに気付いた。それがどんな存在であったかが明確化された。どうして棄てることになったかはわからないけれど、猫が戻ってきて「また棄てよう」とはならなかったのは、やっぱりその大事さに気づくことができたからではないかと思う。

 わたしはそう思う。村上氏がどう考えているかはわからないけれど。

 『猫を棄てる』を書くことは『父を放ろう』ことであり、それはすなわち『自分を再発見する』ことなのではないかとわたしは考えた。

 

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