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言い切り方/イキり方/生き方

 アルファツイッタラーと俗称される人々は、仕事がデキるとされる人々としばしば共通する性質を持っているなぁと、かねてより感じている。そのうちの一つは「言い切り力が高い」という点。

 僕はどちらかといえば言い切り力は低い方で、仕事では言い切らないといけないシーンも多いので訓練により身につけたものの、プライベートではあまり言い切らない。仕事がデキる同僚にプライベートの悩みを話すとたびたび随分と割り切った回答が返ってくるが、反論する気概が元来薄いのでそのまま「確かに、そうだね」と流してしまうことも多い(それはそれで性格が悪い)。

 こういった文章を書く際も、油断すると「思われる」「気がする」という語尾がついつい顔を出す。というより、僕にとってはむしろ言い切れる人々の方が不思議で、手元にあるその情報だけでよくそこまでの結論に自信満々で至れるものだと驚かされる。

 勿論僕らの時間も伸ばせる手の範囲も有限なので、手に入ったカードを元に物事を判断しなければならない、というのは当然の前提として存在する。とはいえ、それにしたって判断するには性急すぎるのではないか、と思わされるシーンも多く見かける(主に、Twitter等のSNSにおいて)。

 ホームレスが電車内で髭剃りをしていたので叩いてみたら裏にお涙頂戴のエピソードがあったのでみんな同情心をそそられて手の平を返しました、というお話(悪意ある要約だろうか? しかしそう実態からも遠くないはずだ)。

 本件は全体的に薄気味悪さが漂っているので機会を改めてnoteに書くかもしれないが、個人的には、叩くのであれば「お涙頂戴のエピソードがあったとしても家で髭剃りをすればよかったのでは」、叩かないのであれば「別に電車内で髭を剃ったってよいだろう」と言えばよかったのではないだろうか。

 それはともかくとして、何か違和感を覚える事物を目にした際に「それには何らかの理由や、背景の事情があったのでは」と一旦考えてみるというのは大切なことだ。目の前の情報だけが全てではない、という一定の線引きというか、心構えは判断の柔軟性を担保する。

 「目に見えている範囲だけで判断して本当によいのか?」という留保なしに物事をあっさり判断し、あまつさえ批判を加えている人は、僕にとって「イキってる人」に見える。僕の見た範囲では、彼らはその自覚も、反省しようという意識も薄いようだ。「知らなかったのだからしょうがない」程度の認識でまた性急な判断を繰り返す。

 僕らの意識はきっと、判断の早い人達の進む方向へと流れやすい性質を持っている。判断材料の足りなさから留保していた判断も、発言力のありそうな人が自信満々に言い切っているのをみると「あるいはそうかもしれない」なんて気持ちがふつふつと湧いてきて、無意識のうちに思想の方向性を引っ張られてしまう。僕にはあなたが右寄りの人か左寄りの人かはわからないが、あなたが持つ何らかの思想について、いつから自分がその思想を持っているのか、何がきっかけだったのか、あなた自身も明示できない…なんてものも多いのではないだろうか。

 いつまでも判断しない、というのも勿論よろしくない。全ての情報が盤上に揃う日なんて来ないし、それでも僕らは毎日毎日大なり小なり何らかの判断をこなしながら生きている。だからといって、その判断が本当に正しかったのか、言い切ってよかったのかを自ら疑う留保の態度は忘れてはならない。

 あなたが判断して言い切って切り捨てた誰かの思いの中に、見るべきものが本当に何一つ無かったかどうかなど、誰にもわからない。むしろ、より良い解答のためのキーは、きっとそういった言語化されないあやふやな領域の中で、ひっそりと見つけられるのを待っているのである。

 ※本稿はなるべく言い切る形の口調で記述されています

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