アニメ「紅三四郎」を見て

「紅三四郎」が非常に面白かった。1969年にタツノコプロで発表されたアニメである。

主人公の紅三四郎は、武道家の父を殺した「片目の男」を探し、敵討ちのために世界中を旅している。彼は母から与えられた真紅の柔道着を身に纏い、父から受け継いだ「紅流」の技を武器に闘う。
まだどこかあどけなさの残る青年ではあるが、武術の腕は超一流で、世界各地の武道家や悪漢共を次々と倒していく。

暗い過去があるにも関わらず、三四郎はその陰を感じさせない。彼のからりとして前向きな性格は、主題歌にもそう歌われている通り太陽を思わせた。

紅三四郎のもう一つの魅力がほぼ毎回登場するゲストヒロイン達だ。その顔ぶれは個性にあふれている。
清楚な娘、強気な娘、車椅子の娘、盲目の娘、アフリカで出会った黒い肌の娘……中には紅三四郎と互角に渡り合う武闘派の娘もいた。

物語は大抵が、紅三四郎が旅先でこのゲストヒロインと出会い、彼女が抱える厄介な事情が「片目の男」に何かしら関連があることを睨み、事件解決のために闘う流れとなっている。
テンプレートは出来上がっているが一つとして二番煎じに感じる話が無いのが面白いところだ。

どんな悪党でも、真紅の柔道着を身に着けた紅三四郎には敵わない。どんな強い敵でも三四郎が倒してくれる。
三四郎の強さには安心感があった。だから見ているのが楽しくて、次々と回を進めていった。

ところが番組後半で、三四郎はようやく会えた「片目の男」に惨敗してしまう。しかもその挫折から武術を辞め紅流を捨てたと言い出すのだ。

このくだりは衝撃だった。
その時の自分の無力さに失望した姿は、あの太陽のような男の姿とは別人であった。

結果として紅流を捨てるに至らなかったのだが、私はこのとき、三四郎は仇を討てずに物語を終えるのではないかと思うようになった。

その後の回に「片目の男」は登場しなかった。

第26話。最終回。
三四郎は旅先でマリという少女に出会う。マリは生き別れの父親を探す旅をしていて、剣術の達人だった。

そのマリがならず者の一味に誘拐されたのを見て、三四郎は助けに向かう。だが、そのならず者一味のボスこそ、マリが探し求めていた父親だったのだ。

三四郎はそれを知らずに、自分を殺そうと襲いかかったマリの父親を返り討ちにし、殺してしまう。

父親の体に縋って泣くマリを見た三四郎の脳裏に、自分の父親を殺された日の事が浮かび上がる。
今まさにこの瞬間、三四郎は自分が憎み、復讐しようとした「片目の男」と同じ立場になってしまったのだ。

マリは怒り、刀を抜いて三四郎の下に走る。三四郎はそれを避けようとしなかった。



私は「紅三四郎」という作品は、三四郎が父の死を受け入れ、親離れするまでの過程を描いたものだと思っている。

マリの刀で紅の柔道着が切り裂かれるシーンにその暗喩が見られる。
武術家の階級章である帯が切り落とされ、紅流の旗印である柔道着はずたぼろにされる。帯、すなわち強さは父から受け継いだもの、紅の柔道着は母の形見である。

三四郎はマリに斬られても良いと思ったと語る。
死ねば父親の仇を取ることはできない。
彼はこの時、両親への執着からある意味開放されたのだ。

マリと別れたあと、三四郎は片目の男に「武道家として会いたい」と願う。そして再び旅へ出る。

「武道家として会いたい」と願うようになったのは父が一方的な暴力によって殺されたのではなく、武道家同士の命を懸けた真剣勝負だったと気づいたからだろう。
三四郎は父を、自分の親としてだけではなく、一人の人間である武道家として見ることができた。

この最終話は、今となってはよくありがちな「復讐は何も生まない」という説教で終わるものではない。
三四郎が敢えてマリに斬られようとし、マリも完全に三四郎を許したわけではなく別れを告げるあたり、復讐に一応の正当性を認めている。
その復讐の思いをも上回る強い意志が、人を強くし、新しい希望になると描いているのである。

最後に演出について少し触れる。
なお私は「○○年前の作品なのに面白い」という言い回しは絶対にしない。過去の作品はロストテクノロジーの宝庫だ。今の人間には及びもつかない素晴らしい技術で溢れている。

動く劇画がそれだ。
人間の生きた筆致が強い劇画は量産が難しく、原画を再現できるスタッフも多くない。
だが紅三四郎ではこの劇画が時に緻密に、あるときは線を敢えて省略し流れるように、生きて動いてみせる。難しい絵柄でありながら作画のブレもさほど気にならない。
更には劇画調の武道まんが故、泥臭い表現が多いのかと思いきや、鮮やかな色彩溢れるスタイリッシュな演出の連続に目を見張る。

次に、世界の様々な国々が舞台となっている点だ。私はここに、当時のタツノコプロの子どもたちへの愛情を感じる。

海外旅行どころか、日本が戦争を経て再度国際社会の仲間入りをさせてもらってまだ間もない時代だ。
子どもたちに少しでも広い世界を見せてやりたいと、制作陣が様々な手法を凝らして知らない国々の様子を描いたのだろう。

大人とて外国の本当の姿を知るわけではない。
僅かな手がかりから、海の向こうには美しく不思議な世界が広がっていると、毎回試行錯誤を重ねた跡に、私は当時の大人たちの子どもに対する愛情を感じるのだ。

初投稿:2020年9月7日 21時3分
ShortNoteより転載

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