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【読了】推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこないー自分の言葉でつくるオタク文章術/三宅香帆


1.やばいは、ヤバイ

自分が好きな小説や映画、好きなアイドルなどの魅力を伝えるときに心の中のうまく言語化できない感動をとりあえず「やばい」という言葉に託して表現してみる。
誰しもがやっていることだ。

「やばい」は喜怒哀楽のすべてに互換性を発揮する便利な言葉だ。
相手もそのときのシチュエーションでこちらの言いたいことをなんとなく汲み取ってくれる。
美味しい料理を食べた時も、泣ける映画を鑑賞した時も、上司の理不尽な言葉に腹が立った時も、贔屓の野球チームが逆転ホームランを打った時も、「やばい」の一言で自分のざっくりとした感情が伝わってしまう。

そう、伝わるというより、伝わってしまうのだ。

今や日本国民の多くが日常的に使うこの言葉にすべてを委ねることによって、自分の個性は消えてしまう。

また「やばい」と同様に「泣ける」や「考えさせられる」といったありきたりな表現(フランス語で「クリシェ」というのだそうだ)でざっくりまとめてしまっても、自分を語ることはできない。その他大勢の誰かの意見との区別がまったくつかないからである。

ではどのようにして、自分だけの感情を言葉に乗せていくのか。
そのヒントについて書かれているのが本書である。

2.他人の感情は言葉に乗って伝染する

あなたがある映画を観る予定を立てているとする。
そしてその映画の評判を前もって知っておきたくて、SNSで感想を漁る。
すると「泣けた!」「感動した!」「絶対に観にいくべき!」といった賛辞を多く目にする。そしてあなたの期待は否が応にも高まる。
そして実際に映画館に足を運び映画を鑑賞する。
ところが、安に相違してあなたはその映画にそこまで感銘を受けなかったとする。このときあなたはどう思うか。

「多くの人が絶賛していたのだから、この映画は素晴らしいに違いない。きっと自分の感じ方が間違っているのだ。きっとそうだ。そう考えてみれば、なんとなく素晴らしい映画のような気もしてきたぞ」

そう自分自身を無理やりに納得させてしまわないだろうか。
そして帰宅後さっそくSNSで「素晴らしい映画だった!」と書いてしまわないだろうか。本当の自分の気持ちに蓋をして。

これが怖いのである。
著者も本書の中でこう言っている。

たとえば映画の感想を見かける。自分とは違う評価が書いてある。はっきりとした強い言葉を使っているので、なんとなくその人の言っていることのほうが、説得力があって正しい気がしてしまう。すると、なぜか自分の感想が、もともとその人と同じものだったような気持ちになってくる。(中略)ほかの人がはっきりとした強い言葉を使っていると、私たちはなぜか強い言葉に寄っていくようにできています。(P63より引用)

『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』三宅香帆

そうならないために、上記の例でいえば絶賛の嵐に巻き込まれないために、どうすべきか。
答えは単純だ。

自分の感想を言葉にするまでは、他人の感想を見なければいい。

3.ポイントを絞り、深掘りしていく

では、周囲の強い言葉をシャットダウンして自分だけの言葉を作るときに、具体的にどうすればいいのか。

ここでも映画を例にとれば、自分が良かった(あるいは良くなかった)と思うシーンは具体的にどこなのか。そしてどうしてそう思ったのか、を自分自身に問いかけることだ。ここのこういうところが印象に残ったというシーンをどんどんメモしていく。そしてそれぞれに対し、なぜそのように思ったのかを考えていく。

本書によれば、面白さの源は「共感」か「驚き」(斬新さ)であるという。
そのシーンのなにに自分は共感を覚えたのか、あるいはどこに新しさを見出したのか。そういったことを細かく分析していく。

言語化とは、いかに細分化できるかどうかなのです(P73より引用)

『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』三宅香帆

「どうしてそう思ったの?」と自分自身に根掘り葉掘りインタビューをしていくような感じだろうか。
そして実際に感想を文章化するときは冗漫になるのを防ぐために、メモした内容から「ここをどうしても伝えたい!」というポイントを絞ってさらに感想を膨らませていけばいい。
結局何が伝えたいのかわからない、といったふわふわした感想にならないためにも、核となる部分を決めておくことは大事だろう。

4.「好き」は揺らぐもの

本書では、SNSのような短文で感想を表現するものから、ブログのような長文で表現するもの、あるいは文章ではなく人に感想を話すときの方法など、シーン別に適切な発信方法が書かれている。
タイトル通り、推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しか出てこない人は本書を読んで自分だけの感想を言語化してみてはどうか。
自分が好きなものを語るということは、自分自身を語ることに繋がるのだから。

最後に本書の中で、僕がもっとも気づきを得たポイントを引用しておく。

大人になって「好き」が冷めてしまうこともありますよね。昔すごく好きだったキャラクターなのに、大人になるとその魅力がわからなくなる(中略)
そう、「好き」って、揺らぐものなんです。揺らがない「好き」なんてない(中略)。
そして「好き」が揺らいだとしても、それを嘆く必要はまったくありません。だって当たり前だから(中略)。
「好き」は一時的な儚い感情である。そんな前提を内包しているんですね。それは悲しいことでもなんでもなくて、そういうものなんです。(P56~P57より引用)

『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』三宅香帆

これを読んだとき、ふっと心が軽くなるのを感じた。
人は、自分がかつて好きだったものに対する関心が薄らいでいるのを自覚した時、なぜか謎の罪悪感を覚えてしまう生き物ではないかと僕は考えている。

たとえば読書。
以前は大好きだった読書に対するモチベーションがどうしても上がらないとき、「こんなことではいけない。もっと読まないと」という使命感を抱いてしまい、無理にでも本を読もうとする。当然そんな心持ちで読んだ本が楽しいわけがない。
読みたい時に読む、読みたくない時は読まない。
これが趣味というもののあるべき姿ではないだろうか。まずは楽しむことを最優先に考えるのであればなおさら。

上記の著者の言葉には、僕のそんな考えに対してグッドボタンを押してくれたような温かみを感じた。


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