一緒に夕陽を眺める。ただそれだけ。
今日は楽しいこと、嬉しいことも沢山あったが、自分の不甲斐なさに落ち込むような出来事も起こった。
よく「落ち込んだとき、どうしてる?」と聞かれるのだが、一番最初は落ち込みきるようにしている。
落ち込んでいる自分と一緒にいてあげる。
それは悲しみという夕日を、落ち込んでいる自分と一緒に眺めるような感じだ。
夕日はその発する光が、自分まで届く。
自分は夕日ではないのだけど、その光に包み込まれて一体化している。
でも自分は夕日ではない。
悲しみ自体は自分ではない。
そして夕日を「きれいだね」と言うのと同じように、「悲しいね」と言う。
悲しいねと答える。
これは、悲しんでいる友達といるときもそうする。
一緒に悲しみを眺めて、悲しいね、と言う。
「寒いね」と話しかければ
「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
『サラダ記念日』 俵万智
サムネイルにも使ったこの写真は、一昨年の夏、沖永良部島でみんなで夕日を眺めているところを父親が後ろから撮ってくれていたもの。
そうやって夕日を眺めているのを、見守ってくれる人がいるものだ。
そしてそれは往々にして、後になって気がつく。
(おしまい)
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