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「昔の友達はもう増えないから、どうしようもないやつでも友達でおるねん」

元旦に会った高校時代の同級生に「映画SUNNYがめっちゃ懐かしいから見てほしい!」と言われたので帰りの新幹線で見てみた。

90年代の女子高生ブームの頃に女子高生だった主人公が、大人になって青春時代を思い出しながら進んでいくストーリーだ。現代のキャストは上の世代ながら、当時の再現はドンピシャ。
私は倉敷の田園の中をチャリ(自転車)で通学するような田舎の女子高生だったが、スカートを短くして、ラルフのベストを着て、ルーズソックスを履いて、やることと言えばプリクラとカラオケ。学園祭ではダンスもした。ノリとしては映画にとても近かったと思う。

映画では高校以来、仲良しグループのメンバーは集まることが無いまま20年の時が過ぎ、とあるキッカケで再会を果たす、というストーリーになっている。
一方、私はというと昔の友人には定期的に会うようにしている。

連絡先が分からなくなってしまった友人や子供が小さくて会えない友人もいるが、高校までを過ごした岡山、大学から9年住んだ大阪の友人には、できるだけ「帰るから会おう」と声をかけて会うようにしている。
先日はいつの間にかFacebookアカウントが無くなっていた大阪時代の先輩と会いたくて、そのご友人に連絡を取って電車に揺られて会いに行ってランチをした。
年末には実家の岡山に帰省する途中に大阪で降りて、新卒の頃の同期と忘年会をしてから終電で岡山に帰るのが恒例行事となっている。

でも周りには昔の友達にはそんなに会っていない、という人もいる。
確かに、日程調整は面倒だし、共通の話題が沢山あるわけでもない。毎日それなりに忙しいし、新しい出会いも沢山ある。
それなのに私はなぜ、わざわざ会いにいくのだろうか?

「家族は家族でいようとするから家族でいられる」

私は思春期に「家族で出かけよう」という母親の提案が嫌で嫌で避けていた。そんなあるとき、母親に「家族は家族でいようとするから家族でいられるんだよ!何もしないで家族にはなれないんだよ!」とすごい剣幕で言われた。
あの頃、母親は必死で家族を家族にするために育てていたのだろう。その責任を感じて必死だったんだと思う。
中学生だった私は、無償の愛を注いでくれる両親に甘えて、何をしても許されると信じきっていたのだが、あの時、母親の剣幕を見て、人間関係は例え血縁関係があったとしても壊れてしまう危うさもある。関係は育てる必要があるのだ。と学んだ。

では、昔の友人に会いにいくのは「関係を育てている」のだろうか?
いや、それも違うように思う。

「昔の友達はもう増えないから、どうしようもないやつでも友達でおるねん」

これは私のお兄さん的存在の方の言葉だ。「あいつほんまどうしようも無いわー」と口では言いつつ、嬉しそうに高校時代の友人の話をしてくれる度にこれを言う。それを聞いて私は「ああ、これだな」と納得する。

私はいつもロミロミをしている時、相手が私に何かをしてくれるから大切なわけではなく、私と出会って何かの縁があってここに辿り着いてくれたその存在自体が愛しい、という気持ちになる。それと同じだ。

友人はある一定量の時間を一緒に過ごして、楽しい時、辛い時を共有して友人関係を育てた時期がある。その育った友人関係では、もうひたすら話を聞いてもらう必要もなく、旅行に一緒に行ってほしいわけでもない (もちろん行けると嬉しいけどね!)。会えると嬉しい。ただそれだけ。

あえて、直接会いにいく理由を挙げるとすれば、「その存在が大事だよ」と伝えあうためかもしれない。口には出さないけど。
「あなたがいてくれるだけで、私は嬉しい。」というメッセージを伝えている

むしろ人付き合い(DO)とは、存在そのもの(BE)を大切に思い合える人を育てていくための活動なのではないか。

「松元さんって広く浅くだよね」

これは年末、知り合いに言われた言葉。他の人がどうか分からないので、自分では分からないのだけどそう見えるのかな?
確かに、東京に来ていろんな人と出会う機会は増えたし、新しい人間関係を育てることにも時間を費やしている。時には終わってしまう関係もある。
でも、いつもいつも大事にしているのは、存在自体が大事と思い合える関係。
月星座が蟹座だけあって、一度身内認定すると、めっちゃ大事にしちゃいますから(笑)

(おしまい)

新年一緒に初笑いしましょう!

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