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溢れる罪悪感

自分のために書くって決めたけど、それは一体どう言うことなんだろう。

ためになくて良い
オチがなくてもいい
誰の目も気にしない

不必要な条件は浮かぶけれど、自分のために書くための必要条件が浮かんでこないんだ。

自分を大切にする とか
自分の気持ちをよく見つめる とか

きっとそういうことなんだろうけどそこがまだふわっとして実態を掴めていない。少しずつ手繰り寄せていくんだろうな。

人に気を使いすぎてる

真紀さんのセッションでも言われたことだけど、わたしは目がいい。目から物語を読むように情報をキャッチする。

それはまるで両目から別々の字幕スーパーが入ってくるようだっていわれた。

チャクラグラスの検眼でもバスから人が落っこちてた。(視野の広さみたいなのを測る装置のみえかたのこと、ちなみにミチルカちゃんの検眼がオススメ)

最初のチャクラグラスをあえて、度数を下げて作ったとき世界から放って置かれている心地よさに浸れた。

世界が見えすぎると、困っている人や助けが必要な人を見つけたときに、黙ってスルーすることが苦しくなる。わかっていては放っておくことが苦しさになっていた。

でも、わたしが助けなくてもその人たちは大丈夫なんだ。変な罪悪感は不要なんだ。

もしかしたら、わたしが助けることで彼ら彼女らのなんらかの成長を阻害することになるかもしれない。

手を出さない優しさもある。そのフェーズに来たんだよってこの前あやこちゃんも言ってくれた。

書いてて思ったけど、わたし自身が困ったときに誰かに助けてほしいけど、それがあまり言えないから、誰かに声をかけてほしい、助けてほしいと思ってる。

だから、わたしも困った誰かをみると助けなくてはという、罪悪感を含んだ擬似使命感が湧いてしまうんだな。

これもまた、わたしがわたしを信じることと、わたしが世界を信じることがイコールってことと繋がったね。

あやこちゃんの個展であやこちゃんが撮ってくれたわたし

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