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創作小噺『わけもなく落ち込む日々に』

足元で猫たちが仲睦まじく毛づくろいしあっている。せっかくのお休みなのに予定はない。まぁ、出かける気力もないのだけれど。

「いいね、お前たちは気楽でさ。まったくさ。」

みどりは一人毒づく。今週はミスばっかりだ。お客さんとの打ち合わせの時間を間違えたり、一列ずらして数値を入力してやり直しをしたり、家を出てからストッキングの伝線に気づいたり。

何かあったわけじゃないけれど、何かモヤモヤする。身体もなんとなくだるい。睡眠も多めにとってはいるけれど、改善の予兆が感じられない。ずっとこのままだったらどうしようと不安が襲う。

35歳。世間的に言えば働き盛りなのだろうか。猫が待つ我が家で晩酌するのが最近の楽しみだ。せっかくの休日、ちょっと奮発して昼飲みしようとブルーチーズを買ってきたのに、なんだか食も進まない。猫がいたずらしないよう冷蔵庫に早々としまう。

スマホを開けば、友達の発信が目につく。ブログをもりもり更新したり、サービスの告知をアップしたり、可愛い誰かの子らの写真を見ていると、自分の無能さを嘆きたくなる。

「わたしは何も生み出してない。」

いつもなら何も思わないのに、弱気になるとつい気になってしまう。気づけばSNSを回遊して2時間経っていた。滅入る一方だ。

「こりゃ、自己嫌悪の休日だなぁ。」

何か流れを変えたかった。気晴らしに近所のカフェに甘いものを食べに行くことにした。今なら苺のソースのたっぷり乗った期間限定のワッフルが食べられるはずだ。そこで持ち直そう。

ひとつおきのカウンター。ソーシャルディスタンスも悪いことばかりじゃない。隣に人が座らないことが、こんなに心の安全をもたらすとこうなるまで気づいていなかった。

人の気持ちに敏感なみどりにとって程よく距離を保つということは自分を守ることと同義だった。怒りながらエンターキーを押すスーツの男性、誰かを待つため息ばかりの学生さん、彼らの気持ちをもらってしまうのでひとつおきの座席はありがたかった。

夕方少し手前の時間帯、住宅街のカフェはそこまで混んでいなかった。狙い通りワッフルに苺のソースがたっぷり。奮発してバニラアイスも乗っけた。ワッフルからバターの香り。ナイフを入れるとサクッと音がした。あったかい。

「もう、旦那が元気なくて、家の中がお通夜みたいなのよ。」

大きめの声が背後から聞こえた。後ろのテーブル席に座る女性二人。カジュアルな服装なので、みどりと同じく近所に住んでいるのかもしれない。ハットを被ったご婦人が相談をしていた。

「どこか具合が悪いとか?仕事で何かあったんじゃない?」

相手が聞き返す。40代くらいで犬のイラストの入ったトレーナーを着ていた。仲が良いのだろう、親身になって聞いている。

「特に、そういったことはないみたいで。本人もわからないけど、なんだか元気が出ないとしか言わなくて。二人でいると、なんだかわたしまで滅入っちゃうのよね。」
「それは困ったねぇ。」

他人事とは思えないお悩み相談に、みどりもつい背中で聞いてしまう。バニラアイスが半分くらい溶けてしまった。慌てて食べながら、さらに背後に耳を澄ます。

犬のトレーナーの方が不意に、

「でもさ、あなたは元気じゃない。」
「まぁ、元気だけど。」
「二人共倒れだと困っちゃうけどさ、あなたは仕事もしてるわけだし、とりあえず家の中は回ってるわけじゃない。」
「まぁ、確かに、そう、ね。」

わかる、わかるよ。でも元気になって欲しいよね。ハットのご婦人の納得いかない声の調子に共感しつつ、みどりも一息つくべくコーヒーを口に運んだ。ご婦人たちの会話は続く。

「私たちの世界ってさ、たくさん人がいるじゃない。」
トレーナーのご婦人が続ける。
「それでさ、全員みんなが同時に元気なことなんてないと思わない?」
質問されたハットのご婦人も
「確かに、みんながみんな元気ってことはないかもしれないわね。」
「それでも、世界はさ、回ってるじゃない。」

大きな話を始めたなと、聞きながらみどりは思った。ワッフルはあとふた口分残っている。

「確かに世界は回ってるわね。」
「だから、それでバランスが取れてるのよ。誰かが具合悪くても、悩みがあって塞ぎ込んでても、他に元気いっぱいの人がいて、その人が世界を回してくれている。でも、その人もずっと元気なわけじゃない。人間だからね。それで、その人の元気が無くなったときは、また別の人が世界を回してるのよ。」
「持ち回り制みたいなこと?」
「そうそうそう。だからさ、今は旦那さん、たまたま元気ない側の役割だけど、他の人が世界を回してくれてるから、存分に元気なくしてて大丈夫なのよ。甘えちゃえばいいのよ。そんでいつか元気が戻ってきたら、今度は誰かの代わりに世界を回せばいいのよ。」
「面白いこと言うわね、あなた。」

わたしが無理して元気を出さずとも、誰かが世界を回してくれている?だから大丈夫?背後の会話から意図せず励まされてしまった。確かに、調子のいいときはある。SNSにバンバン発信していることがみどりにだってある。そしてそのとき、きっと世界には元気のない人もいたはずだ。

世界はみんなで回している。だから、ちょっとくらい落ち込んだって平気だ。元気になったら今度はわたしが世界を回そう。やり方は知らないけど。できること、楽しいことをやろう。ワッフルに苺ソースと溶けたバニラアイスを目いっぱい絡めて最後の一口を頬張った。

食器を返却しがてらご婦人たちの様子を伺うと、すでに別のトークテーマに写っているようだった。今クールのドラマの話題のようだった。

「今はモヤモヤの中にいてもいいんだ。」

無駄に足掻こうとしたり、空元気ださなくてもいいことに、ホッとした。気づかぬうちに”頑張ること”がデフォルトになってしまっていた。頑張らずもやもやしているのは焦るけれど、「誰かが世界を回してくれている。」そう思ったら、気持ちが軽くなってきた。まだ、全快バリバリモードとはいかないけれど、心の重石が抜けたみたい。帰路につく足取りが軽やかになっていることに気づく。

ドアを開けると猫たちが待ち構えていた。にゃあにゃあ鳴くのは帰りを待ちわびてというより、ご飯の時間を過ぎていることへの抗議の声だろう。

「君達も元気に世界を回してくれていたんだね。」

カリカリにがっつく小さな頭を撫でながら、今この瞬間も、元気に楽しく世界を回してくれている全存在の大きな愛を思った。




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