見出し画像

えんぷちぃ ~ empty 空っぽの ~

 仕事の疲れを引きずったままの体で、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しグラスに注ぐ。冷たい水が胃までどうやって到達するのかが分かるほど、乾いていた。まだ足りない。
 
 今年の夏は日本各地で、世界各地でと言った方がいいのか、とにかく「災害級の暑さ」に見舞われ、私が住む北海道も例外ではなかった。ここ数年はそんな夏が続いていて、年を追う毎に酷さを増している。
 元来、北海道の夏はもっと涼しかった。結婚し北海道に移り住み二十数年、クーラーが絶対に必要なアイテムになったのは、ほんの数年前からだ。

 なので、私が働いている工場にクーラーなどもちろん設置されてはいない。この古びた、昭和のにおいが漂うだだっ広い工場に設置するとなると、億の金が掛かるらしかった。そんなお金があるわけもなく、否、あったとしても、それは機械化のための設備投資に使われる。先日から最新の機械が二台も導入され、おそろしい速さで仕事をこなしている。
 最終的に使い捨てられる身だ。遠い話だはなく、近い内に確実に切り捨てられるであろう。連日30℃を超す工場内で、あくせく働く我々パートに支給されたのは、冷感素材のポロシャツ二枚だけだった。

 まだ足りない。もう一杯飲み干したいくらいだったが、一度リビングの椅子に腰掛けてしまった体は、もう動かない。
「えんぷちぃ。」
「えんぷちぃ。」


 結婚して北海道に移り住み、長男が生まれた。夫の職業は教員で、道内の小さな町を転々としている。慣れない土地での初めての子育ては、一言でいえば、簡単ではなかった。
 
 風の便りで、昔の仲間達の活躍を耳にする。結婚前、海外で日本語教師をしていた頃の仲間だ。海外に移住したり、向こうの大学で教えたり、そんな話を聞く度に私の背中は丸まって、私は下を向いた。ジーンズの膝は擦り切れている。ハイハイで逃げ回る息子を、同じくハイハイで追い回して空いた穴だ。これが私の現実なのだ。
 
 このままだと潰れてしまいそう。私はSOSを出した。地方紙の掲示板にこう出した。
「赤ちゃんとお母さんが一緒に学べる英会話教室を探しています。下記電話番号までご連絡下さい。」

 私の現実逃避のための英会話教室は、息子にはあまり意味のない場所だった。幼児英語学習を否定しているのではない。他の子は楽しそうに歌ったり踊ったりしていたが、息子はそうではなかった。たとえ海外に行けなくても、せめて英語だけはと、英語にすがる私のエゴを、幼いながらに肌で感じとっていたのかもしれないと、今はそう思っている。悪いことをした。
 
 そんな息子が唯一楽しそうにしていたのは、レッスンの後のおやつタイムだった。先生がコップにジュースを注ぐ。飲み終わった息子が「えんぷちぃ。」と言うと、先生はまたジュースを入れてくれた。
 「えんぷちぃ」はempty、空っぽの意味で、幼い息子が覚えた数少ない英単語の一つだ。
「ボクのコップは空っぽだよ。誰かもっとジュースちょうだいよ。」
「えんぷちぃ。」と言うだけで満たされる、幼い息子にとって魔法の言葉。

 夫の転勤が決まり、英会話教室を辞めた。私の頭の中に、息子の発する「えんぷちぃ。」のフレーズだけが残った。


 「えんぷちぃ。」
私がそう繰り返しても、グラスは空のままだ。私のグラスに水を注いでくれる人はいない。分かっている。
 たとえ誰かが私のグラスを満たしてくれたとしても、私自身は満たされない。自分のグラスは自分で満たさないと納得できない。私はそういう人間だ。
 空っぽのグラスは、空っぽの私だ。私はこの現状から抜け出すために、今もがいている。私は私に何を注ぐ?

「えんぷちぃ。」
「ワタシのグラスは空っぽだよ。だから私は自分で注ぐよ。自分で選ぶよ。
なりたい自分になるために。」

 私は立ち上がり、二杯目の水を飲むためにキッチンへ向かった。
 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?