【小説】魔女の涙
魔女様が消えてしまった。闇に飲み込まれたのだ。
昨日の昼頃に薬草を採りに、魔女様と僕の2人で森に入った。僕と魔女様は他愛も無い話をしながら森の中を歩いていた。いつもの日常と何も変わらなかった。しかし、闇が現れたのは一瞬の出来事だった。闇は空を切り裂き、突然現れる。僕が闇を認識できた時には、闇は魔女様を飲み込み始めていた。僕が手を伸ばしても魔女様に届かない。魔女様が完全に闇に飲み込まれる前、魔女様は僕を見つめていた。あの瞳は、僕に何を伝えようとしていたのだろう。
魔女様は僕を育ててくれた人だった。僕は森の中にある世界樹の下で倒れていたところを魔女様に見つけてもらったらしい。らしい、というのも倒れていた以前の記憶が無いため曖昧になっている。僕は魔女様の家で看病してもらい、僕に身寄りが無いと知ると、一緒に暮らそうと提案してくれた。それから数十年の間、僕は魔女様と一緒に生活を共にした。優しい人だった。何も覚えていない、何も知らない僕に全てを与えてくれる人だった。
あの闇は何なのか。助けようにも、どうすれば助けられるのか全く見当がつかなかった。魔女様は死んだのだろうか。僕はこの先、魔女様のいない世界でどうやって生きていけば良いのか。自分の心の芯が消え、暗闇が心の中に広がっていく様に感じた。一人きりになった家の中で僕が俯いていると、トントンとドアをノックする音がした。誰とも顔を合わせたくなかったが、お客さんかもしれないと思うと出ないわけにはいかなかった。
「はい、こんにちは」とドアを開けると、そこにいたのは森の近くにあるアイタ村の老婦だった。よく魔女様の作るまじないを買いに来てくれる。
「こんにちは。今日はエン君だけかしら?」
「魔女様は不在です。今日はどうされましたか?」
「昨日、村の人間が亡くなったのよ。明日、葬式を行うから、魔女さんにいつもの『弔いの儀』をお願いしたかったの。魔女さんはいつ帰ってくるの?」
そんなこと、僕が聞きたいと思った。魔女様は千年もここで暮らしているから、まさか消えるなんて誰も夢にも思わない。
「分かりません」
「あら、困ったわねえ」
老婦は眉を下げ、こちらを見つめてくる。あなたがやれないの?と言いたげだ。
魔女様に『弔いの儀』の作法については教えてもらったことがある。それに魔女様の後ろでいつも見ているから、出来ないことは無い。そう思い、僕は老婦に答える。
「僕一人でもよければ、承ります」
「あら、いいの?それなら、お願いするわ」
老婦は安心した表情を浮かべ、僕に葬式の時間を伝えると機嫌よく帰っていった。
お客さんへの対応が、一人でも無事出来たことに僕も安心した。壁にもたれかかり、僕は深く息を吸って吐く。ドアを見つめていると、いつものように魔女様が「ただいま」と言って帰ってきてくれるのではと期待したが、そんなことは起こらなかった。
「きっと魔女様は戻ってくる」
僕はそう呟き、自分に言い聞かせた。
***
朝、日の光がベッドに差し込む。僕は眩しさに目を覚ます。いつもなら、隣でまだ寝ている魔女様を起こすのが僕の仕事だった。
台所に立ち、朝飯の準備をする。目玉焼き、ベーコン、トーストが基本メニューだ。
目玉焼きの焼き加減は、魔女様は半熟が好きで、僕はしっかり焼いたのが好きだった。
まだ料理に慣れていなかった頃、焼き過ぎた目玉焼きを魔女様に何度も食べてもらっていた。「美味しいわ」と笑いながら食べる姿を思いだす。
出掛けの準備を済ませ、僕は黒いフードのついたコートを羽織る。このコートは魔女様にお願いして用意してもらった。僕は人と姿形が違うから、人目に出るときはこのコートを羽織るようにしている。昔は常にコートで体を隠していたが、魔女様が僕の姿を素敵だと言ってくれた時から、段々と着なくなっていた。今日は一人で村に行くから、お守りとして身に着けることにした。
村は森を抜けた先にある。アイタ村に着くと老婦が出迎えてくれた。
「あら、いつもと違う格好ねえ」
「僕の姿を見たら、驚く人がいると思って」
「あらあら、気にすること無いのよ。うちの村の人は、エン君のこと知ってるんだから」
そう言って老婦は、僕のコートを脱ぐように促した。老婦の気遣いを無下にすることもできず、僕はコートを脱ぐ。
葬式には村の人間が四十名程参列していた。僕の姿を見て驚く人はいなかった。いつの間にか、僕もこの村に馴染んでいたらしい。僕は、棺の前に立つ。棺の中には老人の遺体が納められていた。安らかな表情で、まるで眠っているようだな、と思った。
『弔いの儀』というのは、死者の魂に祈りを捧げることで魂を浄化し、次の生命に巡るための準備だと聞いた。けれど、本当は違うのだ。
僕は目を閉じて、手を組む。祈る。そして魔力を込める。
辺り一面に雪の結晶のような白い光が瞬き、皆を優しく包み込んでいく。
本当は、「弔いの儀」は魂を浄化する儀式などではなくて、『輝きの魔法』をかけているだけだった。僕はそのことに気付いた時、なぜ嘘を付いてまでこの儀式をするのか魔女様に聞いたことがある。
魔女様は昔、この魔法を大切な人から教えてもらったことがあるらしい。葬式で悲しむ人たちを元気づけるために「弔いの儀」としてこの魔法をかけたら、村の人たちはこの魔法に魅了されて、次の葬式でも「弔いの儀」を行ってほしいと魔女様にお願いしたそうだ。それが今でも続いている。嘘はいけないと分かっている。それでも、魔女様はこの魔法が好きで、この魔法が人々の悲しみを癒す手助けになるならば続けると言っていた。僕は魔女様のそういうところが好きだった。
***
葬式も終わり、僕は帰る準備をして老婦に挨拶をする。
「エン君、ありがとねえ。これお礼ね」
そう言って僕に報酬を渡す。
「ありがとうございます」
「魂はどこに巡っていくのかしら。私も亡くなった旦那の魂と巡り合えたらいいのにと思うことがあるわ」
老婦は遠くを見つめながら静かに話した。
「蘇ってくれないかしらと思うこともあるの」
蘇り。その一言で、僕の中にある魔女様との古い記憶が思い起こされる。
僕は昔、死んだ者が生き返る魔法は存在するのか魔女様に聞いたことがある。魔女様は存在すると答えた。たしか魔女様はこう言っていた。
「亡くなった者を生き返らせる魔法はあるわ。『よみがえりの魔法』というの。」
「その魔法はどうやって使うのですか?」
「普段使っている魔法のように呪文を唱えて魔力を込めるだけではなくて、必要なものを揃えないといけないの」
「必要なものとは?」
「魔女の涙よ」
「魔女の涙?」
僕は困惑した。魔女様が涙を流すところなんて見たことが無かった。いつも優しく微笑んでいる人だったから。
そうだ、思い出した。よみがえりの魔法は存在する。よみがえりの魔法を使えば魔女様を元に戻せるかもしれない。けど、肝心の魔女の涙を手に入れるにはどうすればいい。この世に魔女は一人しか存在しない。魔女様が消えた今、魔女の涙を手に入れる方法など無いではないか。
僕はまた絶望を感じながら、老婦に挨拶をしてアイタ村を後にした。森の中、魔女様が消えた場所に立つ。地面がきらりと光り、そちらに近づいてみると見覚えのあるロケットペンダントが落ちていた。拾って確認すると魔女様がいつも身に着けていたものだった。チェーンのところが切れているから、闇に取り込まれた瞬間に外れて地面に落ちたのかもしれない。ペンダントを開こうとしたが、金具が引っかかっているのか開くことが出来なかった。僕はペンダントを握りしめた。待っているだけでは状況は変わらない。
「魔女様を助ける」
僕はそう呟き、心に決めた。
家に着くと、ポケットに入れていたペンダントが小さく動き出した。ポケットから取り出した瞬間、魔女様の部屋からゴトゴトと物音がした。
「魔女様?」
僕は驚きながらも、魔女様が帰ってきたのかもしれないと期待した。普段は、魔女様の部屋を勝手に開けることは無いが、今回ばかりは我慢できず勝手に開けてしまった。部屋を覗くと、本棚が揺れゴトゴトと物音を立てていた。近づいてみると、本棚の中にある本が本棚から出ようとしていた。僕がその本を本棚から抜き出すと、本は動かなくなった。本は、古くて分厚い。表紙には何も書かれていなかった。僕は本を開き、ページを捲った。
***
―魔女様が闇に飲み込まれる瞬間から千年程前―
私は森にある湖の側に立っていた。数百年も孤独に生きることに気がおかしくなりそうだった。この湖に飛び込み、このまま一人消えてしまうのも良いかもしれない。
私は湖に向かい、一歩足を進める。すると、背後の茂みからガサガサと物音がしたので振り返った。そこには、少年程の背丈の黒いコートを着た人間がこちらに向かって歩いてくる。顔はコートのフードを被っていてよく見えない。私は警戒する。普段、人間が私に対してこんなに近づいてくることは無い。
「あなた、何?これ以上、近づかないで」
私は強い口調で相手に牽制する。それでも相手は近づいてくる。
「悪いけど、それ以上近づくようなら攻撃するわよ」
まだ相手はそれでも近づこうとしてくる。何か話しているようだが、聞き取れない。
足元にあった石に魔法をかけて相手に打ち付ける。辺りには砂埃が舞う。通常の人間ならば気絶する程度の力だ。砂埃が落ち着くと、予想外に相手は倒れもせずに立っていた。
「魔女様、やっと会えた」
そう言って、少年は私に抱きついてきた。私は驚き、相手から距離を取る。これだけ警戒していたにも関わらず、抱き着かれたことに驚きが隠せない。
「ちょっと、何なの?」
「失礼しました。やっとあなたに会えたことが嬉しくて、つい…」
私に対して敵意があるわけではなさそうだ。
「私のことを知っているの?」
疑問が止まず、捲し立てるように問う。
「僕はエンといいます。」
エンと名乗る少年は被っていたフードを脱ぐ。
「僕は千年先の未来から、あなたに会いにきました」
エンの姿は、人間ではなかった。初めて見るその姿に、不思議と懐かしさを感じた。
***
僕は会いに来た。過去の魔女様に。
魔女様の部屋にあった本は魔法書で、あらゆる魔法について書かれていた。ページを捲っていくと、ある魔法について目が止まった。それは『過去へ遡る魔法』だった。
過去へ遡れば、魔女様の涙を手に入れることが出来るかもしれない。そうすれば、『蘇りの魔法』を使って、魔女様を生き返らせることが出来る。そう考えた僕は、この『過去へ遡る魔法』を使うための準備を数年行った。
そして今、僕の目の前には魔女様がいる。千年前の魔女様は、僕の知っている魔女様より少し幼さが残る。それでも既に四十年程は生きているはずだ。僕は、魔女様に出会えた瞬間、優しく受け止めてくれると予想していたが、過去の魔女様は武闘派のようで、まさか攻撃されるとは思わなかった。魔女様は僕を見ながら疑う表情をしていた。
「未来から来た?どうやって?」
「『過去へ遡る魔法』を使いました」
「聞いたこと無いわ」
「今の時代には存在しない魔法なのかもしれません」
「…まあいいわ。なぜ来たの?」
「魔女様の涙を頂きたいのです」
「私の涙?」
「僕はある人を救いたい。救うために魔女の涙が必要なのです」
「理解できないわ。断ります」
魔女様は立ち去ろうとする
「お待ちください。急に意味の分からないことをと思うかもしれませんが、
どうしても必要なのです。そのために僕は未来からやってきたのです」
「魔女の涙ね。減るものでもないし、あげても構わないのだけれど。あなた来る時代を間違えた様ね」
「どういうことですか?」
「私はこれまで生きてきて、一度も涙なんて流したことが無い。ご期待に沿えなくて悪かったわね」
魔女様は僕を鼻で笑って一瞥し、立ち去って行った。何となくに過ぎないが、僕には魔女様が傷ついているように思えた。この時代の魔女様は、僕が知っている魔女様とは全く違う。涙など簡単に手に入ると考えていたが、そう上手くはいかないようだ。
一度、計画を練り直そうと僕は近くの村へ向かうことにした。
***
村人たちに魔女様のことを聞いてみたが、どれも良い反応では無かった。
「魔女なんて恐ろしい」
「俺たちも食われてしまう」
過去の魔女様は村人たちと交流が無いようだ。
僕の知っている魔女様は、村人たちとも仲良く接していた。僕と暮らし始める前の魔女様がこれまでどう生きてきたのか、僕は何も知らなかった。魔女様はこれまでずっと長い間、一人きりで生きてきたのか?
僕は魔女様の家の近くの茂みで、魔女様が家から出てくるのを待ち構えた。これでは変質者でないかと思いながらも、手段を選んでいる余裕はなかった。魔女様を助けると決めた日から、何でもすると決めているのだ。
家から魔女様が重そうな荷物を抱えてながら出てきた。小さな体で、荷物の重さによろけながらも森の方へと向かっていた。村の方へ向かうのだろうかと思いながら、僕は魔女様に見つからないよう気を付けながら追いかけていく。
森の中にある大きな樹の前で魔女様は座り込んだ。体調でも悪くなったのかと僕は心配で声を掛けてしまいそうになったが、杞憂だったようだ。魔女様は抱えていた荷物から、木の実や果物を取り出した。すると、周りからリスやうさぎ、鳥たちがやって来て食べ始める。そうだ、僕と暮らしていた時も魔女様はこうして時々動物たちに食べ物を分け与えに来ていた。
「あなたも、そろそろ出てきたら?」
追っていることに気付かれていたらしい。僕は気づかれていることに気付いていなかった自分に恥ずかしさを感じながらも、魔女様の前に顔を出した。
「どうして私のことを追い掛けてきたの?涙が欲しくて?」
「違います。あなたのことが心配で」
「心配?そんなの初めてだわ。村の人間たちが私のこと何て言ってるか知ってる?」
「いえ」
「魔女になる代わりに心を失った女ですって。私には心が無い。心が無いから涙も出ないの」
「それは嘘ですね」
「え?」
「魔女様には心がある。とても優しい心を持っている。現に今だって、これだけ動物たちが集まってくる。心が無かったらこのようなことはできません」
「…ありがとう。そう言ってくれた人は初めてよ」
魔女様は少し照れた様子で僕に礼を言った。
「皆、魔女様のことをよく知らないだけなのです。少しずつ知ってもらえばいい」
「そんな風に考えたこともなかった。私、ずっと一人だったの。魔女はこの世界樹を守るために生まれてくるものだから」
そう言いながら、魔女様は目の前にある大きな樹を見る。
「この樹ですか?」
「そう。この世界樹は世界に1つだけしかない。この樹には魔力が込められていて、その力を悪用しようとする人間もいるの。その人間から世界樹を守るために、魔女は生まれてくる」
魔女様がそんな役目を持っていることを知らなかった。未来にもこの世界樹は存在していて、確かに魔女様は時々この場所を訪れていた。
「この樹にそんな力があるなんて知りませんでした」
「誰にも言えなかったの。簡単に言いふらして、もし何かあったらどうしようって。
人と話すのも怖くて、一人きりで暮らしてた」
僕は何と声を掛ければいいか分からなかった。
「ねえ、あなたはここら辺の人ではないでしょ。今はどこで生活しているの?」
「外で良さそうな場所をみつけて寝ています」
「外で? 危ないわ。よかったら、私の家に来たらどう?」
「いいのですか?」
「部屋はたくさん余っているから」
「お言葉に甘えさせて頂きます。」
「それに、あの話も…。涙のこともできる限りやってみるわ」
***
僕と魔女様の生活が始まった。僕は未来の魔女様と暮らしたことがあるけど、魔女様は他人と生活するのが初めてで慣れないようだ。
眠い目を擦りながら僕は起き上がる。キッチンの方から魔女様が叫ぶ声が聞こえ、慌てて向かう。
「どうしましたか?」
そこには、フライパンと闘っている魔女様の姿があった。フライパンには目玉焼きらしきものが乗っている。
「焦がしてしまったのですか?」
「美味しいものを作ろうと思ったのだけれど、どうにも料理はできなくて…」
「見ていてください」
僕は魔女様の好きな半熟の目玉焼きを作って見せる。
「おいしそう…」
「半熟の目玉焼きです。どうぞ食べてください。そちらの目玉焼きは僕にください」
「いいの?今度、焼き方教えてね」
僕はあなたから教わったんですよ、と言いかけたがやめた。魔女様は美味しそうに
僕の作った目玉焼きを食べている。
魔女様は村人とも関わりを持つようになった。まじないを売り始め、その効果が評判となり、次第に客が増えて行っている。村人たちとも段々と中を深めていっている。
魔女様が嬉しそうにしている姿を見ていると、僕も嬉しかった。
ただ、相変わらず涙を出すことはできなかった。何度も魔女様と涙を出そうと試みたが、出すことが出来なかった。
「エン」
魔女様は僕を呼ぶ。
「どうしましたか?」
「私、あなたと会えて良かったわ」
思ってもいない言葉をもらって、僕は面食らった。
「…こちらこそ」
「照れているの?」
魔女様は笑いながら、僕をからかう。なんだか、懐かしい会話に感じた。何か気の利いた言葉を返そうとしたとき、僕の心臓のあたりが強くドクンと締め付けられた。
痛みに耐えられず僕は倒れこむ。視界がぐらぐらと揺れながら霞んでいく。
「エン…?」
魔女様は僕を驚きながら見つめている。
***
目を開けると、そこは魔女様の家の寝室だった。横には魔女様が目を瞑りながら座っていた。看病疲れで眠っているようだ。迷惑を掛けてしまったことにしまったことに申し訳ない気持ちになった。
僕が使った「過去へ遡る魔法」には副作用がある。心臓から始まり、体の全てを魔法に食い尽くされる。食べられたら最後、どうなるのか分からないがきっと僕は僕でなくなるのだと思う。それでもいいから、魔女様を助けたかった。心臓がこれだけ痛むということは、もう副作用が始まったのだ。あともって数日というところか。結局、涙を手に入れることはできなかった。僕は最初から最期まで、馬鹿だったな。自分の愚かさを嘆くにも、もう何もかもが手遅れだった。
魔女様は目を覚ました。
「エン、起きたのね。急にあなた、倒れて」
「看病して頂いたのですね。ご迷惑をおかけして申し訳ないです」
「迷惑だなんて思っていないわ。ゆっくり休んでね」
「僕は帰らないといけません」
魔女様は悲しい瞳で僕を見つめた。
「…そう。私、あなたに何も出来ていないわ」
「そんなことはないです。僕はあなたからたくさん貰ってきました」
「…私も連れて行って?」
「それは、できないのです」
「私、また一人になってしまうわ」
「魔女様には村の人たちがいます。もう一人ではないのです」
「…分かったわ」
そう言って魔女様は寝室から出て行った。
***
翌日、魔女様の姿が見当たらなかった。最後の別れの挨拶をしようとしたが見つからない。村の人に聞くと、湖の近くを歩いているのを見たそうだ。僕が向かうと、魔女様は座り込みながら湖の水面をのぞき込んでいた。
「魔女様」
僕は後ろから声を掛けるが、魔女様は振り向かない。
「何よ」
「もう行かないといけない。最後の別れの挨拶をしに来ました」
「そう。お元気でね」
魔女様は水面を見たままだった。
「こちらを見て頂けませんか?」
「…いやよ」
魔女様は頑なに振り向こうとはしなかった。そこで、僕は閃く。
僕は目を閉じて、手を組む。魔女様の幸せを祈り、魔力を込め、「輝きの魔法」をかけた。
「きれい…。これはエンの魔法?」
そう言って、目を輝かせながら魔女様は僕の方に振り向く。
「やっと振り向いてくれましたね」
「ごめんなさい。私、エンと別れるのが寂しくて。それに、こんなに悲しいのに、涙も出せない」
「いいのです。あなたには涙は似合わない」
僕は魔女様を抱きしめる。
「エン、ありがとう」
「こちらこそ。僕はあなたのことをずっと大切に思っています」
僕は魔女様に別れを告げた。
***
心臓が痛い。「過去へ遡る魔法」は時の制約に逆らう魔法だから、その代償に魔法の効果が切れると、使用者の魂は時空に閉じ込められる。身体は魔法に食われ、魂は時空の間に閉じ込められる。
魔女様を助けることが出来ない無力感に襲われる。すると、耳元で誰かが囁いた。
「なあ、本当は気付いているんだろう?」
誰かが僕に問いかける。
「何に? 君は誰だ?」
「魔女様が闇に飲み込まれたのは何故なのか」
「分からない。あの闇は何なのだ?」
心臓は痛みを増す。頭の中に誰かの声が響き、ぐらぐらと揺れている。
「そうじゃない。闇が何かなんてのは、どうだっていいんだ。問題はなぜ魔女様が闇に飲み込まれたのかだ。魔法にも長けている強い方だろう。あんなものに飲み込まれるような人ではないはずだ。なぜ飲み込まれたと思う?」
「…僕? 僕がいたから?」
「やっと気づいたか。それとも、ずっと気付いていたのか? そう、お前を庇ったせいで、魔女様は闇に飲み込まれた。お前さえいなければ、魔女様は消えたりしなかった。お前が消えればよかったんだ!」
誰かの言葉が僕を浸食する。魔法が僕の体を奪っていく。魂ひとつとなり、僕は僕で無い『何か』になる。そうだ、僕が消えれば良い。エンを消すんだ。あいつを探さないと。『何か』は時空の間を必死に縫うように駆け、時空の穴からエンを見つける。エンはへらへらと笑いながら、魔女様と森を歩いている。お前がいなければ、魔女様は助かるんだ。『何か』はエンをめがけて突っ込むように時空の穴を抜け出し、エンを時空の中に引き込む。
***
「エン」
声が聞こえる。これは魔女様の声だ。
「魔女様? やっと会えた」
魔女様の体ははひどく傷ついていて、息をするのも苦しそうだった。
「魔女様? 誰がこんなことを…」
突如、これまでの記憶が蘇る。『何か』になってしまった僕は、僕ではなく魔女様を襲ってしまった。闇は僕だった。
「魔女様、どうしよう。ごめんなさい。魔女様」
「エン、落ち着いて。大丈夫だから」
僕にはもう体が無いから魔法も使えない。こんなに深い傷を負ってしまっては、治すことが出来ない。
「ねえ、エン。過去の私に会ってきた?」
「…はい」
「そうよね。そんな気がしたの。私、あなたにまた会いたいってずっと願っていたわ。そしたら、森であなたを見つけたの。」
魔女様の呼吸は少しずつ浅くなっている。
「魔女様、僕は何も出来なかった」
「そんなことないわ。ずっと孤独に生きていた私の元にあなたが来てくれた。」
魔女様は僕の方に手を伸ばす。
「こっちに来て、エン。最後に私の魔力をすべてあげるわ」
魔女様は魂だけとなった僕を引き寄せようとする。
「嫌だ、魔女様。そんなことをしたら、魔女様は死んでしまう」
拒絶しようとする僕のことはお構い無しに、魔女様は続ける。僕に魔女様の魔力が流れ込むのを感じた。次第に僕の体が、元に戻っていく。
「ありがとう、エン。大好きよ」
魔女様の瞳から一筋の涙が零れる。
「涙だ。この涙があれば『蘇りの魔法』が使える。魔女様を助けることが出来る」
「この涙を世界樹のもとに捧げて」
そう話した途端、魔女様は目を閉じ倒れてしまった。
「魔女様、魔女様」
魔女様に触れようとした瞬間、僕は森に引き戻された。魔女様はいない。
「そんな」
やりきれない思いで僕は地面を掴み、叩く。すると頬に暖かい光を感じる。
魔女様の涙だ。
「魔女様…。」
僕は魔女様の涙をそっと手で包み込み、世界樹の元へ向かう。世界樹の前に立ち、僕は魔女様の涙を世界樹に捧げた。世界樹は魔女様の涙を取り込んでいった。
涙を取り込んだ世界樹の幹から光が差し込む。僕がその光に手を伸ばすと、泣き声が聞こえる。幹を裂き、かき分けるとその中に魔女様によく似た赤子がいる。赤子は泣きながら大粒の涙を流し続けている。僕は赤子を抱えて、壊れないように強く抱きしめる。こうして、僕たちはずっと繰り返し続けていく。
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