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君の愛もまた完全である

 春分の日、おめでとう。
 誕生日の次に大切な春分を、いつになく静かな気持ちで迎えた私に反して、ここは春の嵐。降るものも立つものも架けられしものも皆窓の向こうで揺れている。風が強い日はいつも、この日に飛び立つことを選んだあらゆるものの旅路を思う。風の荒々しい抱擁へ抱擁を返せる者はこの世にそんなに多くいない。

 私は遊ぶ星であり、遠くより託されし贈り物、あるいは渡されし橋であり、泉を汲む柄杓である。遊びの只中に生き、贈り主の手の温みを忘れず、どこからどこへ渡されたかを決して疑わず、溢れる泉を頼ればいい。そして癒やされる者であり、癒やす手立てを問う者であり、愛を知る者である。
 「知っている」と「信じている」はよく似ているが、やはり異なるものなのだ。知っていることを疑うことはできず、知った後は知った後の世界を生きるしか他ない。吸い込んだ風にふくらむ肺の心地よさ、故郷の星と目配せする楽しみ、頭の天辺から爪先まで歓びにひたされている、ほんとうはいつも。生きていることはそのようなことだと知っている。そう、忘れてしまうだけ。私は、私が安心していると、知っている。それからいずれまた忘れてしまうことも、知っているよ。

 ここに生まれて、ここに生まれてくるときの心地を何度もなぞりながら、生きている。春はいつだって名を呼ばれているみたいだ。この視界から溢れるもの、私を小さく収める春の視界を満たすもの。なにはなくとも、うれしいね。 春だからね。 ね。


 「君の愛もまた完全である」

 だれかがかけてくれたこの言葉も、思い出せるように書いておこう。


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