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これらはすべて大事なきれいごとである

「無題」

わたしのすきなひとが
しあわせであるといい

わたしをすきなひとが
しあわせであるといい

わたしのきらいなひとが
しあわせであるといい

わたしをきらいなひとが
しあわせであるといい

きれいごとのはんぶんくらいが

そっくりそのまま
しんじつであるといい

『えーえんとくちから』 笹井宏之 (ちくま文庫) より

どうしてきれいごとだなんて言うのだろうと言葉の傍らで首を傾げていた。
わたしの背骨と呼べる本だけれど、背骨の骨のひとつひとつと話すことはおそらく一生かかってもむずかしい。

好きなひとを、好きな場所を、ただ好きでいるだけのひとでいたい。それが好きなひとの好きなひとじゃなくても、好きなひとがもういない場所でも、この好きはわたしのもの。

自分ひとりのための感受性でひとを好きでい続けることが難しく感じるから、このように在りたいと願っていることに気づいたときにおまじないのように書きつけた。
あなたがうれしいとうれしい。そう言い切ることができる自分の共感性は、他人の怒りを自分の怒りのように感じたり、他人の悲しみを感じるあまり体の具合が悪くなるという過剰な側面がある。自分の感じることに比べて、他者への共感を底辺に持つ感情には「正当性」があるように思ってしまうから余計に厄介だ。怒っていい、悲しんでいい、自分だけのためじゃないならばいくらでも。「あなたの感受性は妥当だ」そう言ってもらいたいのかもしれない。薪を焚べるように心を使ってしまう。
ほんとうは、一対一でいたい。
好きである理由も、好きになれない理由も、わたしとあなたの間にしかないと思いたい。だから、あなたとだれかの間にあるものを、わたしは横から自分の感情のように感じてはいけない。

今年何度も感じたことがあって、今日もそのことを思い出していた。
ひとの気持ちを想像して、それが間違っていると気づかされるときのこと。
それも、自分はよく思われていないとかもう仲よくできないんだろうなあとかそういった認識がただの思い込みで被害妄想だったというパターンだ。深刻そうに書いているけれどいわゆる「なーんだ」って思えた話である。しかしあまりに何度もいろんなひととの間に起こるものだから、自分はなにかひとの気持ちを読み間違えていると疑うようになった。
思い当たることはひとつしかない。それは自分はたやすくひとをよく思わなくなったり、もう仲よくできないかもしれないなあという極端な心の在りようを、自分と相手との間における「決定的なこと」として受け取っているというところだ。だから相手もそうだろうと決めつけて、ひとりで納得さえしている。
身近にいるひとなら嫌ってほどわかるだろうけれど、好きも嫌いもどちらも強い感情のまま外に出そうとする。好きなものは好きで嫌いなものは嫌いだと隠そうとすらしないところがある。自分のそういうところを目の当たりにするとひどく落ち込む。落ち込むだけで一向に良くならないので、情動のコントロールを学ばなければいけない。(そういえば初めてアンガーマネジメントの本を手にとったのも今年だった。あまりしっくりこなくて"その手の本"との相性の悪さを思い出したりした)

嫌いというのはつまるところ「合わない」だと思う。
合わせようとするか、合わなさと向き合うしかない。嫌いなものは嫌いで立ち止まっていてはあまりに浅すぎる。合わなさと向き合わざるを得ないときに呻きとして出てくるのが「きらい」なのかもしれない。嫌いは表層的な感情だ。その奥ゆきを知ろうとするならば、エネルギーは「友好」や「親愛」の方面から汲み出してくるしかない。そしてそれは「嫌い」から一歩離れることだ。
自分はきっと「合わない」の判定がひとより速い、しかもそれはそうそう覆ることがない。合わなさと向き合う気もないのに、突きつけられ続けると呻きは喚きになり、対象に向かうことになる。しかし、ひどい態度をとっているまさにそのとき、わたしはそのひとの不幸せを願っていただろうか。どこにも証拠はないけれど、いつだってただただきらいなだけだったような気がする。

わたしのきらいなひとも、わたしをきらいなひとも、やっぱりわたしはきらいかもしれない。きっと大事にはできないけれど、必要な存在だとわかるから、わたしのきらいなひとも、わたしをきらいなひとも、どこかで幸せでいてほしい。おたがい身勝手に健やかで幸せでいられるように。
これが自分にとっての真実であり、大事なきれいごとである。


嫌いなものやひとの傾向を並べ立てるひとが苦手で(刃物を振り回しているように見えて条件反射的に萎縮してしまう)、憎しみについて書いても嫌悪感についてはわざわざ書くことはしてこなかった。
(そう、憎いと嫌いって全然違うところにあるのだということも書きながら気づいた)
自分は気難しいひとだと思う。
どうしてあげればいいかもうわからないと他人事のように匙を投げたくなることも多々ある。今年はひとが近くにいる暮らしに加え、いくつかの勤務先にも所属して、まあよく怒り、よく泣き、よくよく笑っていた。ひとと一緒にいないとわからないことがこんなにもある。
わたしはひとの気持ちを的確に想像できない。
ひとがわたしの気持ちを的確に想像することもおそらくできない。
それらを踏まえた上で、わたしはひとから学ばなければいけない。
おおらかにあることや、決めつけないこと、然るべき時を待つ態度を、ここでこうして出逢えたひとから学びたい。もっともっとよりよくなって、ひとと一緒にいたいと願っているのだと思う。

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