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弱く、もっと弱く

 7割箱に詰められたくらしが残った3割のくらしを際立たせている6月の部屋でこれを書いている。旅に出たら旅に出る前のことは二度と書けなくなるから。

 2018年3月に越してきて、京都でのくらしは4ヶ月の途中下車もあったが5年になる。大阪にもなんだかんだ5年くらいいたので不思議な気持ちだ。そうか、実家を出てから10年なのか。この間に暮らした家は実家以外3つ。置かせてもらった職場は6社。2010年の終わりから本づくりを始めて12年と半年、今月はじめてわかりやすく躓いた。結構頑張ったけれど、どうやら頑張り方を間違っているのかもしれない。自分を疑う時間は決して前には進まない。呆然としていてもそれでも今日がやってくる。すべてを注ぎ込んだ本に早く会いたい。詩を書いているときのたのしさも、言葉に行き着くよろこびも依然として色褪せない。距離感の変遷はあったが今現在の私も詩作の中でしか触れ得ない世界に助けられ、全霊で愛している。たとえば10年や15年を巻き戻せたとしても、自分の人生はこうなるしか他なかったのだろう。それ以外の人生は他人の人生だ。

 弱さを比べることはくるしく、人の弱さを受け容れられないような自分の弱さは邪魔でしかない。だから弱いままでしか居られない具合の悪いときはひとりでいるようにしてきた。がらんどうで立ち尽くしている場合ではなく強くならねばならないのに、こんなときになぜか「弱く、もっと弱く」って聞こえている。弱くなることは恐ろしい。強くなることは容易いけれどそれもまた恐ろしい。弱く、もっと弱くなったなら一体なんだというのだろう。

 (思考の外から投げ込まれた言葉が閃きなのか、受信なのか永らく判別がつかない。人とすれ違うときに言葉がふっと訪れるときなんかは何かをくすねてしまったような気さえしている。近年もらいものはすべて受け取るようにしている。私を選んで降ってきた星も雨も私のものだ。)

 これからあたらしい町で自分のことを知り、上っ面ではわからないことまで知ろうとしてくれる人が読みにきてくれたりするのかもしれない。はじめまして。居心地はよくないけれど、何かを隠すことはむずかしいくらい、もうずっと私は私で在るだけです。書くようにはあなたと話せず、あなたと話すための言葉では書けない。それだけです。

 さて、あるときの観光ではこの先筆を折ったことがあります。今回の観光ではどうなるでしょうか。御心ならば、。あなたの御心ならば、この小さな筆先と広大な白紙をこれからもどうかお守りください。

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