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祝い合える世界がいい

 冬至。夜が最も長いこの日がクリスマスと関係があることを教えてもらった。陰が極まるこの日を境に夜はすこしずつ短くなってゆく、明るさが生まれてゆく、すなわち光が生まれる日であると。世の光であるイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスは、別名「光の降誕祭」と呼ばれる。

 今日は光が育ちはじめて、一日目。陽が極まる夏至に向かって歩みを進める一日目。クリスマスの気配を濃く帯びた今日の日は年末の気配も纏っている。ちょうど一年前の私は心の風邪をひいていた。今は冬における避けようのないイベントのように思っている。(昨年の私はこれを人間の仕様と呼んでも構わないだろうと書き残している)
 何も、感じないのだ。バスの窓に流れゆく景色のように、人の存在も世界の動向も自分の感情さえも映っているのに焦点が合わないまま滑り去ってゆく。そのときはどうやって常である「感じてしまう」自分に戻ったのか覚えていない。いつも帰り方を覚えていないから、きっとまた新鮮な動揺を覚えながら心の風邪をひくだろう。そういうものだ。そういうものだと理解して歩むのが私にとっての冬だ。

 今年、知ることは光だと思うことが何度もあった。それは聖書を学ぶことだけではない。自分の至らなさ、他者の不器用さ、世における人間のかなしさだって、知らなければよかったと思うことはひとつもない。知ることは、思うことに繋がる。ひとりで祈る力になる。想像することは誰かへ書くことに繋がる。あなたがそこにいることを信じる力になる。

 今や形だけのお祭りになってしまったこの世のクリスマスのにぎやかさは、光が訪れたことを信じた人々の思いが実を結んだ結果の顕れだと、私は思う。何がうれしいのか、何がめでたいのか、わからなくても歌が聴こえる、町が華やぐ。贈り物が行き交い、あたたかな寄り道をする理由が増える、灯りのあるところにすこしだけ留まろうと思う。この世界を包む空気中に溶けた祝福を、私たちは知っている。いつかうんと先の未来から振り返ってみたら、クリスマスの日はとてもうつくしく、やさしい景色だろう。
 しかし世界へ目を向ければ壊されたガザの教会、クリスマスを祝わないと決めたベツレヘムの教会もある。教会が壊されることの痛みとクリスマスを祝わないと決めた教会や信徒の人々の葛藤を想像する。祝うことが連帯することなのか、祝わないことが連帯することなのか、私にはわからない。心に尋ねて返ってきた小さな声を、ここで言葉にすることはできない。祈るということは、祝うことと祝わないことの中立で有り得るだろうか。いつかうんと先の未来から振り返ってみたら、クリスマスの日はうつくしくやさしい景色でありながら、世の光を希求する人々の切実さも込められているだろう。

 ああ、祝えない世界なんていやだ。戦争の止め方がわかっていたら、クリスマスを祝いたい人々の心にこんな苦悩は生まれない。ぜんぶ戦争が悪い。私は祝い合える世界がいい。祝い合える世界を望みます。



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