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自分の姿を見せること

詩なるものは世界に溢れていて、それを他者へ差し出すことを選ばない人が大半であるというだけで記憶の片隅や胸の奥底に仕舞われている詩は人の数だけあるだろう。良い悪い、軽い重い、生きるも死ぬもどちらでもいい。どちらの肩を抱き、どちらを拒むものであったとしても「ゆらぎを大きく包むもの」として詩の在り方は有用だ。くりかえし言葉の前で傷つき失敗してきた私は詩に「有効活用」されている身なので、詩の特権について語ることはできない。それでもこの頃はマイノリティを意識する必要がなくなってきたと感じる。ここを僻地と呼ぶ必要なんて、ほんとうは初めからなかったのだ。

今年に入って二度「面接」で自分のことを話す際に「詩を書いています」と話した。自分にとって秘匿すべきことでもなんでもないと思えるようになった出来事があったわけではなく、隠さなくてもいい場で面接の機会をもらえたから話せたのだと思う。(ちなみにこの面接は雇用にまつわるものだけではない)相手の方がうれしい反応をくださったことも相まって、私は私のことを話してくれた私に感謝さえした。社会見学のような20代をやりきるために引いていた線がどんどん薄らいでゆく。身軽になった分あたらしい楽しみが詰まってゆく。
(線を引いて仮初の役割に没頭するのも楽しかった。体がふたつあったらどっちもやるのにな。肉体のかけがえのなさってほんとうにこの星ならではの「乙なもの」ですね。)

他者という鏡の存在の前で、自分の姿を見せること。私は私としてあなたを映すこと。(そのために私が私になることが必要だということ)映し合う私たちにとって親愛とは見つめることだろう。どんなに歪んで見えても、自分とかけ離れたものだと思えてもその姿を見つめたいと願うとき、私はあなたの中に見えざる私の存在を見ている。分け隔たれた私たちであることに相変わらずかなしくもなるけれど、あなたの病が、あなたの苦しさが、私たちがいるここについて知るための手がかりであるとわかるから、私と似ていないやり方で泣いたり笑ったりするあなたのことを大事に思う。これは、私のやり方。あなたと似ていなくても心細くはない。

そう、すこし前からここで生きていくことについてなにか小さくとも手を打ちたいという気持ちがあります。
私が私で在ること以外にもできることがないだろうかと。
半年間手紙の企画をして得た実感があるので、ひとりでひとりに向かうことに変わりはないのだろうけれど、時間をかけたいテーマとして引き続き抱えてゆこうと思います。
ってまだ何もしてないけれど言っておこう。なぜならそれは誰がやってもいいことで手立てはたくさんあるほうがいいからです。私もすでに講じられた多くの手立て、そのアイデアと愛によって助かっています。

まずはすこやかさ。そしてすこやかさを保つこと。
たましいが体からはみ出してしまわないよう気をつけながら、春に生まれてゆこう。

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