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うれしいって言っていい

今日はじめて、職場で「戦争」という言葉を聞いた。
絞られた声に言葉にならないものまでも聞いてしまったような気がして、エプロンをつけた自分のまま僅かに狼狽えた。
同じ不安をマスク越しに吸い込んでいる。その瞳でその指で同じかなしみにふれている。
本を読む、花に見惚れる、手紙を書く、歩いて出かける、人とぶつかり謝りあう、手紙を受け取る、あたたかいふとんの中で泣く、すきなひとに会いにゆく、かなしみをすこし忘れる、友だちがいい絵を描いているのを見る、春をよろこぶ、よろこびながら詩を書く。
それが平和なのだと誰にも教えられなかった。
自分が持っているものをなくしている誰かを思うことでしかわからないなんて、どこまで愚かしいのだろう。
あれが戦争で、ここにあるものはすべて平和の上に成り立っている。そしてそのことを忘れられることもまた平和であるのだろう。
書くことはわたしにとってひとりきりでのたうち回ることでもあるけれど、平和を享受しているということに他ならない。
うれしい。
うれしいって言っていいんだろうか。
そう思い留まることは他者のよろこびにもかなしみにも誠実ではないと思いながら、自問することをなかなかやめられない。
うれしいって言っていい。
だってこれがあったほうがいい。
奪われたものを取り戻すことにもいろんな方法があるはずだ。
うれしいとき、うれしいって言って。
あふれるほど受け取ってしまったことを恥じたりしないで。
満たされていて。
それが奪われることにきちんと怒りかなしめるように、愛すること。
あなたがあなたのよろこびを力いっぱい抱きしめられるように。


世界的危機と呼ばれる状況にわたしたちは生きて、国際問題として語られるかなしみに抗おうとするこの状況に立ち会う経験を、「ひとり」へ落とし込むにはどうしたらいいのだろう。そんなことをずっと考えている気がする。人間ひとりの中で起きる戦争や平和について、わたしたちはもっと考えられるはず。こんなことが起きないとわからないこと、というのは平和の有り難みだけではないはずで、ああうう、まだ言葉を探しています。言葉を探すというよろこびの内にて、言葉を探し続けています。


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