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分断について書くことを選ぶ

オリンピック開催にもやもやするのは東京に住むひと働くひとが大事にされていないと感じるから。
でも日常に目を向けると自分の大事なものやひとを大事にしてくれないひとやことなんて溢れている。そうだ。友だちが不条理な目に遭っているとき、自分にできることなんてない。たとえ「ある」と言ってくれても、結局いつも「私自身が満足できること」はできない。満足できる基準がそれこそ綺麗事の範疇を出られないから、したいこと、できること、すべきことのギャップに何回も何回も飽きずに躓いて憤って悲しみ続けるのだろう。
この綺麗事を捨てずにいるため、あるいは捨てきれないから否応無く、私は私の仕事を選んだ。
(言葉を一度非力なものとして見做してからじゃないと私自身も綺麗事に生きることになる。そんなの耐えられない。否、叶わないということの側面性に用があるのだ)

昨年春、政府の対応に不満が噴出していた地獄のようなタイムラインに辟易としていた頃、友だちのひとりは「そんなに嫌ならば他の国に移って他のリーダーを頼ればいい。ここでしか暮らせないなんてことが全ての人の現実だろうか」という旨のことを独りごちていた。なんて冷たいひとなんだろうと当時の私は適当に流してしまった。
(それがしたくてもできない人もいる、どうして私たちがここじゃないどこかへ行かなければいけないの?)

下り坂を下り続けているようにしか思えない現実をひた歩き、あの冷たい言葉を握りしめたままついに2021年の夏を前にしている。今、たとえば自分が東京に住まう親しいひとに“オフィシャルに”お節介を焼いてもいいならば「こわいならば逃げなよ」と言ってしまう気がする。
(したくてもできないこと、それはどれくらいしたいことだろうか。無理解を憤り悲しみ続けることをあなたは選ぶの?)
私はそこにいないからその街の日常にどれほど恐れが含まれているのかわからない。今自分は接客業に就いてるので昨年想像できなかった恐れを知り、それからいくらか目を瞑ることができるようになった。少しでも楽になるために体も精神も順応しようとする。「慣れ」でサバイブできる限界に臨むことを選ぶなら、それだって応援する。リスクの問題じゃないんだ。選んでいることに自覚的になれる選択であることが大事だと私は思う。望まない現実が何を見せているか知ることを選べるように、適切な心の置き場が見つけられるように、祈っている。

私たちはこんなにもばらばらだったのだ。
分断を突きつけてくる現実に悲しくなってしまうことを今もやめられない。だけれど、そんなの生まれたときから病も怪我もひとりぶんだ。守ると心に決めてくれたひとに守られてきただけのこと。毎秒毎秒私自身が選んできた生がここに在るだけのこと。
肩代わりできないことと、誰のせいにもできないことは同じ現実に両立する。
私たちは今こんなにも共通のトピックを持てるのに、あなたは誰のせいにしようとしているの。悪役を悪役に引き立てる群衆のひとりとして、あなたは心を使い尽くしてしまうつもりか。

そういえば、一年前はまだ政治や社会について語ることにそれなりの勇気が必要だった。
今は政治について語っているつもりはないけれど、あれは人の集まりで、あれは意志の集まり。
選んでいることに自覚的であるとは到底思えない。
そういう人に思うことは、友だちでも偉いひとでも同じだ。
その選択が見せる現実を全うできることを祈っている。


「持ち場から持ち場へ」

わたしができないことを、あなたがしてくれていて
わたしが担えない役目を、あなたが背負ってくれている。
もうどんなにがんばっても、あんまり変身できそうにないや。
そういうところに立ったときはじめてあなたが選んだものがわかったような気がした。
そっちはまかせた。その調子でおねがいします。
こっちはまかせてね。なんとかなりそうだから。
そんなふうに、あらゆるひととなにかを分け合ってきたのだろう。
あなたはわたしがこれを選ばなかったわたしだ。
わたしはあなたがそれを選ばなかったあなただ。
ずっと、あなたが遠かったけれど
自分の持ち場から見つめ合えばいいんだ。
あなたがしていることをよく見ていよう。
ここから見えるものを伝えていよう。
あなたが選んだものを全うできるよう祈っていよう。

『観光記』(2020)収録


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