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回復について知っていること

 書きやめること、それは読みやめること。それはまなざしの前に立つことが叶わないことであり、カーテンを開けられない朝のことである。病に伏せていたときに転がり落ちた弾みで、人の手が届かない小さな窪みに心が落ち込んでしまった。世界(と呼べるおおきな抱擁のこと)を信頼できなくなり、この世(と呼ぶほかないおおきくて冷ややかなもの)に押し潰され、大事に抱えていた余白やあそびの類のものは失われ、やがては「存在」という脆弱な「点」になってしまった。
 自分を現実的に救う。それしか選べないことそれ自体は本質的な取り組みへの回帰でもあるだろう。ただ肉体が怪我をした時のように心は今もぎこちなく、きちんと傷を負っている。自分が存在していることから目を逸らすように食べることも飲むことも選ばず、時計に背を向けてひたすら眠り続けたときのこと、祈ることも手の中になかったおそろしい暗がりを体験したことを、心は独りで覚えているのだ。どこか他人事なのは、この心のぎこちなさが思考や体調とは別に独立していることを実感しているからである。人は独りでに心に傷を負う。私は私をここまで打ちのめすことができる。環境や他人を差し置いて内側でこんなにもひどいことが起きる。
 端的に言えば「抑うつ」について理解が深まったという話なのだが、今ここからはもう見ることができない場所として、うつくしい景色を覚える時と全く同じ力でなぞり、言葉を頼り、そしてこの目で読むこと。生きている以上、体験を愛するしかない。善悪も、恥も越えて、私が私へ選び続けることを、このように書くことでしか証明できない。

 横たわりながら画面越しに見つめていた生きている人の言葉が自分の現実と地続きだとはとても思えなかったけれど、それでも人が生きていることを読みたかった。読むことは細い糸として確かに回復を編んでいたのだとわかったから、見えるように書くことを私はもう躊躇わなくていい。今も画面の向こうで横たわっているあなたの存在を忘れないために、ここにある痛みを手放したくない。横たわっている自分が未だ隣の部屋にいるように思えることが強さでも弱さでもどちらでもいい。

 転ばないように歩く方法よりも、転んでどんなにひどい怪我を負っても立ち上がれるということを自分自身がちゃんと事実として知っていることの方が大切だ。周回遅れで歩き出した他人がどこかに存在していることの方が足元を照らしてくれたりする。何もかも当たり前にならない足取りのままこの足はまた走り出すだろう。ここにまだ吹いていない風を感じるように、回復してゆくのだ。


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