見出し画像

わたしの母のこと

母は今年80歳になった。
24歳で私を産んだから、もう56年の付き合いになった。

子供の頃は、母のことが好きだったと思う。
でも、本当によく叩かれた記憶がある。
布団叩きやハエ叩きの柄の部分で思いっきり叩いてくるから、よく手や足にミミズ腫れができていた。
手足を縛られ、押し入れに入れられたこともある。
あるとき、また怒られてトイレに逃げ込んだら鍵を閉められた。怖くて扉をたたいて開けて!と叫んでいたらガラスが割れ、手首を4針も縫う大けがをしたこともあった。
今でもそのときの傷あとはしっかり残っている。

改めて、文字にしてみると、ちょっと自分でもひく・・(・_・;)
母は自分でも、今なら虐待で捕まってるなと、言っている(笑)

だからといって、母のことを嫌いではなかった。

忘れ物をした時などは、学校まで持ってきてくれたり、いつも美味しいご飯をちゃんと作ってくれたし、お弁当も美味しかった。
愛情もいっぱいもらったとも感じてる。

母は2歳の時に父親は戦死、そのあとすぐに母親も病死したらしい。
だから、両親の顔すら覚えてはいないと言っていた。
戦時中は父方の弟夫婦のところに母親と疎開していて、母親が亡くなったあともそのまま父方の弟夫婦に育ててもらっている。
弟夫婦には3人の女の子がいて、母はその3人のお姉さんという立ち位置で育てられたようだけど、養女になることはなく姓はそのまま自分の親の姓を名乗っていたので、何不自由なく育ててもらって感謝していると言ってはいるけど、いつも自分だけ本当の家族ではないと感じていたんじゃないかと思う。(これは私の推測だけど・・)

母は父と出逢って結婚するわけだけど、その父親代わりの弟夫婦(私から言うと、おじいさんとおばあさんになるのだけど)
父と結婚したいと言った時に、おじいさんはもの凄く反対したらしい。
当時の父のことを私は知らないけど、それは絶対に反対するだろうと思える父である( ̄▽ ̄)

母は、きっと平凡で幸せな家庭を持ちたかったんだろうと思う。
だけど、相手が父だったから、到底、母が望むような平凡な家庭は望めなかったんだと思う。

季節の中で「終わる」のは夏だけ。そんな夏の終わりに見ると切ない写真たち。

今でもよく覚えているのは、お風呂の入り方。
1歳、3歳、5歳の2つ違いのこども3人を、当時お風呂に入れるのもそれは大変だっただろうと思う。
まず、体を洗う時には、1歳の妹を湯桶にお尻を入れるようにして座らせ、私がその妹を支える。その間に母は自分と3歳のやんちゃ盛りの弟を洗う。
そのあと、弟が湯船につかるのを私が見守る。
母が妹を洗ったあと、私は自分で体を洗う。
狭いお風呂の洗い場はいつもガチャガチャで大変だった。
けど、おもしろかった。

でもそこに、いつも父はいなかった。
妹が生まれた日も、お腹が痛くなった母を見て、私がとなりのおばさんに知らせた。生まれた次の次の日くらいに連絡がとれ、帰ってきてからおばあちゃんにこっぴどく怒られていたらしい。

母が、盲腸で入院になり、夜になっても帰ってこなかったときがあった。
そのとき私は、たぶん小学3年生くらいだったと思う。
お母さんが帰ってこないし、お腹すいたと弟も妹も泣く。
そこで、私は昔隣に住んでいたおばさんちに行こうと決め、ランドセルに明日の学校の用意を弟の分もして、着替えもカバンにつめて、子供の足なら30分くらいかかる道を弟と妹をつれて歩いて行ったこともある。


わたしは、幼い頃からいつもおねえちゃんだった。


そんなおねえちゃんをやめたくて、高校卒業後は家を出たのかな。。


この続きは、また。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?