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第九夜 文字と体温。

こんにちは、あやのです。

西表島は梅雨の中休みで、晴れの日が続いています。昨年は空梅雨でまとまった雨はあまりなく気が付いたら梅雨明けしていて「西表の梅雨はこんなもんか」と思った記憶がありますが、今年はどしゃぶりの日も多く、激しい雨音に内地の梅雨が思い出されます。

今年は、制限付きではあるものの少しずつ地域行事が復活しつつあり、コロナ禍以前の島の暮らしがゆっくりと戻ってきているようです。年齢職業その他のことを飛び越えて、同じ時間の中で、スポーツで本気になったり、お酒を飲んだり、まさしく共同体の一部として生かされているのだと思えてきます。例えば、ソフトボールをしている中でホームに帰ってきたランナーを汗ばんだ手でグータッチをすることで迎えたり。「おう、あやの、ここ座れ。」と飲み会の席でおじいから呼ばれたり。酔っぱらった先輩が、ひたすら愛とセックスの話をするのを笑いながら聞いたり。

そこにいるってこと自体が、すでに繋がっている証拠なのです。

西表島の行事は、口頭伝承によって紡がれています。島に来たばかりの私は「後から来た人が困らないように、文字にして記録したらいいのに、どうしてしないのだろう。」とずっと不思議に思っていました。東京で会社員をやっていたときも、引き継ぎ書が大事であり、そこに書いてないことで後任が嫌な思いをしたりめちゃくちゃ残業したり、あーーー思い出すだけでもなんかしんどい気分になるくらい、とにかく記録だけが大切と信じていたのです。

今なら分かるのです。文字にすることで取りこぼすものがあることを。そして、西表島の人たちはそれをとても大切にしていることを。

島に住んで、島を守って、島を大切にしている人たちだけ、行事を含む島のアレコレをやらせてもらえるのです。たとえ手順書があったとしても、それに従って島外から来てすぐの人が同じことをやっても、きっと本当に伝えたいことは伝わらないのです。祭りの舞に意味があるのではなく、それを何年も続けていることが重要なのであり、同じ体験をしている人が時間を超えて何人も存在していることに意味があるのであって、踊りとか作法とか歌とかそれを執り行うことは伝承の導入部分でしかないってことだよなぁと、今noteを書きながら頭が整理されています。

西表島の共同体としての生活の中で感じられる安心感とか、収入は少なくても笑顔で楽しく生きられることとか、海も星空もキレイすぎて「自分なんて宇宙のほんの一部でしかないんだな」って感じられることとか。伝えたいことはまだまだたくさんあるので、体温が伝わる言葉(もしくは言語に頼らない表現方法)を紡いでいけたらなぁと思います。


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