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コソボ紛争の話

初めに

この記事は、教材作りの一環として書いてみました。お読みいただけると幸いです。分かりにくいところ、改善すべきところなどありましたら、ご指摘いただけるとありがたいです。

コソボ紛争の話

「男は、私の腕から赤ん坊を奪ってポーンと放り投げたのよ。」

コソボからアルバニアに逃げてきたというアルバニア系女性は、ぐったりと疲れきった様子で、しかし語気強く言った。

 この女性は、セルビア共和国の少数者であるアルバニア系の民族。1999年当時、セルビア共和国はモンテネグロ共和国と共にユーゴスラビア連邦共和国を形成していた。セルビア共和国では、アルバニア系民族のほとんどは南部のコソボ・メトヒヤ自治州に住んでいたが、セルビア、ユーゴスラビア治安当局からの迫害が激化し、84万人以上の人々が避難したり追放されたりして、アルバニア、マセドニア、マケドニアなどの国々に流入した[1]。

セルビア共和国におけるコソボ自治州

 セルビア人とアルバニア人の対立には何百年前までも遡ることもできるようだが、20世紀には両民族の対立が暴力にまで発展することがしばしばあった。そのような中、旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国のチトー大統領時代である1945年に、コソボは自治州の地位を得た。

 しかし、チトーの死後、ミロシェビッチが大統領に就任する1990年前後から、コソボの自治権は大幅に縮小。コソボ州議会の解体、アルバニア語の公用語からの削除、アルバニア語新聞の発禁、大学での粛清などが次々と行われるようになり、アルバニア民族の不満は募る一方。中に過激化した者がコソボ解放軍を形成するに至った。コソボ解放軍は、当初、小規模な集団であったものが、国外のディアスポラから援助を受け次第に武力を強化するようになり、1998年半ばごろにはコソボの主要な都市の幾つかを包囲するというまでに力をつけていた。

出典:旅のともZenTech  https://www.travel-zentech.jp/world/map/Kosovo/Map_of_Kosovo_and_neighboring_countries.htm

コソボへの赴任

 筆者がコソボに赴任したのは、まさにその7月半ばであった。当時、難民や国内避難民を支援する国連団体であるUNHCRに勤めていたのだが、2年間にわたるアフリカのウガンダでの勤務を終え、コソボに長期出張することが命じられたのだ。7月半ば頃は、コソボ解放軍がこのまま勢力を伸ばすのか、セルビア当局の反撃が大きくなっていくのかは不透明だった。

 ところが1ヶ月ほどすると、素人目にはセルビアの治安部隊の力が圧倒的に見えてきた。セルビア側は奪われた街を奪還するだけでなく、アルバニア人が住んでいる村を襲撃、焼き討ちにするというようなことを始めていた。当初、私は、アルバニア系住民との仕事にはついておらず、別の人々と仕事をしていた。

 実はコソボの住民構成は複雑である。コソボ州内での数の上での多数者はアルバニア系住民、そのほかにセルビア系、ロマ民族、そして、当時はクロアチア難民が住んでいた。私の担当は、クロアチア難民だった。紛争下のコソボに難民として住むよりも、状況が安定してきているクロアチアに帰りたいと思う人に、より早くスムーズに帰還してもらうという仕事だ。クロアチア難民は民族・宗教的にはセルビア系に近いと見なされている。その頃、アルバニア系国内避難民への支援に出かける同僚たちが、道路のチェックポイントで長い時間質問攻めにあっているのに対して、私は「クロアチア難民に自主帰還の話をしに行く。」と言うとさっと通ることができたのだが、そこにもセルビア当局の意図が感じられた。そのクロアチア難民に会いに行く道すがら、大きな太い煙の柱がもくもくと何本も立ち上がっていくのが見える。それは、アルバニア系の村々が焼かれているのだった。

コソボで見たこと、聞いたこと

 そのうち、私の担当はクロアチア難民、アルバニア系住民、ロマ民族、セルビア系住民の全てに拡げられた。助手のカイト(仮名)が運転してくれる車で、それぞれの人たちの状況を視察に行くのだ。ある朝、明け方まで降っていた雨のせいで道路が濡れていた。私たちは、今日はアルバニア系の村に行くと決めて出かけた。村に着くなり、人々がわっと寄ってきた。昨夜、村人がセルビア当局の者に殺されたという。その人がどのような人だったのか、なぜ殺されたか心当たりはあるのかなどということをこちらが質問する間も無く、人々は「殺された」ということを訴え続けている。「ほら、血の跡がまだあるでしょう。」と指差す先は、まだ雨で流されきれなかった血がうっすらと赤く道路の上に残っていた。別の村では、内部がほぼ焼かれている家に男性が一人残っていた。家が焼かれた後に戻ってきたのだが、「今でも、突然ボッと家具から火が出て燃えるんだ。」と言う。

3人の女性の話

 別の日、私たちはミックスと呼ばれている町の一つに行こうと決めた。ミックスとはセルビア系とアルバニア系の住民が両方住んでいる町や村である。着いてみるとシーンとしている。町に誰もいないのか。車の中からずーと見ていると、2―3人、外に出ている人が見える。どうもセルビア系の人らしい。アルバニア系の住民はどうしたのだろう。車をゆっくりと進めていると、3人の女性の後ろ姿が見えた。3人並んで両脇の女性が真ん中の女性を支えるように、ヒョロヒョロと歩いている。話を聞いてみよう。彼女らはアルバニア系で、ある日、他の人達と一緒に大通り向こうの村に避難をしたのだけれど、自宅がどうなっているのか知りたいと思い、3人でやってきたのだという。真ん中の女性は目が不自由なので、他の2人が支えていた。そして、怖いから一緒に来てほしいと私たちに頼むのだ。

 家の前に着いた。2メートル以上ありそうな高い壁、頑丈で大きな扉は無傷に見えた。この扉を開けたら「あー、よかった、全部あるじゃない。」となって欲しい。女性たちは扉を開けた。何もなかった。「家も果樹園も、何もない。」と女性たちは崩れるように嘆いている。ただ1つ、庭に1本のバラの木が残っている。赤い花が咲いていて、顔を近づけるときれいな香りがしていた。家屋の土台であるコンクリート部分だけが向こうのほうに残っていたのだが、その方向へ女性たちはとぼとぼと向かっていき、しばらくして戻ってきた。「これだけが残っていたのよ。」両手に抱えていたものは、端の焼きこがれた枕。その枕を唯一の宝物として抱きしめている。

 女性たちは嘆き続ける。アルバニア語は少しうるさいような音に聞こえることがあるのだけど、女性たちの声はまるで詩を吟じるかのように悲しく流れている。なぜかカイトの姿が見えず、女性が何を言っているのかがわからない。ただ、3人は庭にうずくまり抱き合うようにして嘆きあっている。その横にバラの木。その時、一瞬、私は、映画館に座る自分の後ろ姿、その向こうにはスクリーンに映し出された女性たちとバラ、その映像が見えた。ほんの一瞬だったけれど変な感じだった。おそらく、この状況を現実として受け入れることができずに、現実を虚構の世界に置き直したのだと思う。そこへ、カイトが戻ってきた。あまりにも気分が悪くなって、別のところに行って吐いていたのだと言う。軍隊にも入ったことがある屈強な男性だが、その彼でも、今まで経験したことのない反応だそうだ。

アルバニア系だけではない

ミックスでもセルビア系住民が圧倒的に少ない村では、反対に、彼らが追い出されるようにして避難民になった。襲撃され家を焼かれ追い出された者の憎しみは皆同じだった。違いがあるとすると、セルビア系の避難民は行政から支援を受けることができるということ。そのような人々の中、最も注目されないのがロマ民族だった。数も少なく、どちらからも受け入れられずに迫害されている。あまり憎しみのこもったことは言わないが、彼らこそ忘れてはならない少数者だった。

アルバニアへ

 コソボの状況はまったく好転しないまま、私は、12月にコソボを離れ、翌年1月には隣国アルバニアで働くことになった。コソボを離れてからも、レチェック[2]の虐殺などコソボにおけるアルバニア系住民への迫害は厳しくなる一方だった。それを背景に、3月24日、NATOがセルビアに対し空爆を開始した。しかし、空爆開始を受けて、セルビアの治安部隊は、地上においてアルバニア系住民への迫害や攻撃を、ますますエスカレートさせることになった。追い出されるようにして、アルバニア系住民は一挙に隣国へ逃れて行き、10日ほどで、アルバニアだけでも25万人の難民が押し寄せた。最終的に、空爆の終了した6月9日までにその数は44万人以上に及んだ。

コソボから避難してくる人々

 さて、1999年1月にアルバニアに赴任していた私は、3月25日からこれまでにないような規模で入国してくるコソボ難民に対応することになった。状況から推測すると性的暴力をふるわれた女性も多いように思われた。しかし、会ってすぐに「レイプされましたか。」と聞くほど場違いなものはなく、とにかく話を聞くということに専念した。冒頭に挙げたのは、難民女性の話の一部である。ある夜、武器を持った治安当局の男たちがやってきた。すると、1人の男が女性の抱いていた赤ん坊を取り上げて放り投げた。女性は、子供が床に打ちつけられて死んでしまうと思って、悲鳴をあげたのだった。赤ちゃんは、もう1人の男が受けて無事だったが、悲鳴をあげている女性を見て男たちはせせら笑っていたという。別の女性は足に怪我をしていた。靴も履かずに裸足のままで歩いて逃げてきたという。

 お父さんと小学生の娘さんもいた。お父さんは目が不自由。2人は国境近い町のキャンプでテント生活をしていたが、お父さんは見知らぬところで周りの様子もよくわからず、夜にテントが開くような気配があると怖くて仕方ないという。同じ場所では、高齢者の方々が若い家族と離れ離れになってしまったケースや、小さな子供が夜眠れていないと、母親が訴えるケースも多かった。

 人工透析を受けているという難民の人たちもたいへんだった。人工透析は定期的に受けるもの。明後日までに受けないといけない、本当は昨日だった、などなど切羽詰まった患者さんばかりだが、現地の病院も満杯である。ドイツなどが引き受けてくれることになったが、旅立つためにはビザを手配しなくてはいけない。

帰還

 結局、アルバニアへは44万人以上もの難民が短期間で押し寄せたのだが、コソボに戻る時も前例のないスピードだった。NATOが空爆を終了した6月9日以降7月初旬までに、難民の80%に及ぶ366,000人の人々がコソボに自主帰還し、他の国へ逃れた難民も含めると、その数は約60万人にのぼった。しかし、アルバニア系の難民や国内避難民が故郷に帰った後、コソボから20万人もの人々が逃れ出ていくという事態になった。彼らは、ロマ民族や、アルバニア系住民からの報復を恐れたセルビア系の住民たちだった。


[1] UNHCR、 (2000)『難民』1(116)。以下、難民・帰還民などの数字はUNHCRによる。
[2] コソボ南部の村

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