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不連続で不可逆な速すぎる社会への何か

昨日聴いたこちらのPodcast。

一言で言うなら、「それな」。それなそれなとずっと心の中で相槌を打ちながら聴いていました。その「それな」の中身を少し自分の言葉で書き出したいと思います。


"なんとか2.0とか3.0とかいうけど、コンピュータのOSやソフトの比喩で自分たちのマインドの世界を理解して本当にいいのか"

なんとかX.0みたいな表現の仕方を最初に目にしたのは"Industry4.0"だったと思う。調べてみたらドイツでこれが言われだしたのはもう10年近く前。ここ数年でさらによく目にするようになったのは"Society5.0"のせいだろうけど、それももう5年前。過去の歴史から積み上げられると不思議と納得してしまうし、”不確かな時代”において、未来を数字でパキっと表現することがウケるのは分かる。たしかに、すごく長期的に見れば私たちが不連続な変化の最中にいるのは事実なのかもしれないけれど、人間個人が知覚できる日常は連続的にしか進化のしようがない。本来は連続的なのだから、こういう不連続な表現がいいのか、悪いのかで言ったら、やっぱりちょっと悪いと思う。誤解した人が迷子になるから。「分かりやすい掛け声」が必要なことに異論はないけれども、結局読み取る側のリテラシーが要求される(SDGsしかり)。一方で、最初はなんとかX.0の概念に納得した人(私もその一人)でも、5年10年を過ごすと実感と違うことが分かってきて、そういう人は醒めてきている感じはあるのかなと。他に良い”掛け声”と方向性があるならそっちのほうがもちろん良いけど、パキっとしていない概念は大勢で共有できないからデジタル化した表現にならざるをえないし、不可逆性の呪縛からは逃れられないのでしょう。少なくとも現在は。本当はもっともやもやふわふわ非定型な概念を共有できる世界であってほしい。自分が生きている間は難しそうだけど、量子コンピューターは0と1だけの世界から脱出するヒーローになってくれるないかなと、ちょっと期待しています。


目的欲求に対して結果を追い続けなければいけないことに世の中みんな疲れている。(中略)「目的」を持つことファーストみたいなことになる。スローライフ、スローフードが大成功した。スローサイエンスという言葉も生まれている。

ゼロイチじゃない世界に行きたいとか言いつつも、パッキパキのこの世界にどちらかというと順応している人間なので、目的のために邁進するのは気持ちいいなとは思っちゃう。でもそれは仕事とか、何か勢いつけて成し遂げたいことがあるときだけの話。猫も鳥も桜も、みんな何にも目的なんて持ってない。この目的ファーストの世界がもたらす究極の弊害は、「私には生きている意味なんてない」と思い込んで死んでしまう人がいること。社会的な建前と自然なあり方を上手に行き来できないと、この世界はとっても生きづらい。私も20歳くらいまでは、"目的"をもっと普遍的に大事な概念として上位に持ってた気がする。だから工学を自然と選んだんだと思うけど、たまたま理学寄りの指導教員のところによく分からず迷い込んだということが功を奏し(?)自分で問いをつくる、みたいなことを実験を通じて体感できた経験は、精神に効いたんだろうなと今更気付く。

"スローサイエンス"は言葉としては初めて聞いたけど、競争に疲弊して研究の世界を離れた方の話を思い出した。毎朝最新の論文をチェックして、自分の研究と同じ内容が出ていないかハラハラしながら確認する、さらにかかるボスの圧力、聞いているだけで堪えられなかった。そんなふうに加速しつづける中で、技術の発展にだんだん私たちの価値観や倫理のアップデートが追い付かなくなりつつあって、歪みを溜め込んでいる。科学の世界には超高速最大出力が得意な人たちが一定数いるだけに、どうしたら上手に速度を緩められるのかは、今のところ見当もつかない…。


夢から覚めるのは痛い。変化には代償(痛み)を払わないといけない

昨年、世界中がパンデミックの恐怖に襲われたとき、絶対に止まらない、止めようがないはずだった「世界が立ち止まった」という感覚があった。4年に1度必ず開催されてきたオリンピックが延期になったのはその象徴で。世界は"スロー"になった。二酸化炭素の排出量は削減されて、空気はきれいになって。でもそこには、犠牲があった。止まらない列車から押し出されそうになりながらようやく乗っていた人達が、急減速の慣性力で振り落とされた。

個人が自分の速度を緩めるときは、自分でその犠牲を引き受けられるけれど、社会全体でそれをすると結局犠牲は一部の人に偏ってしまう。なんとかして少しずつ速度を遅くしていく方法は、ないものでしょうかね。


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