見出し画像

正義を思い、SDGsを思う

先日こんなツイートをした。

ふと「正しい」「正義」って何だろう、と考えることがある。

正義を目指し、正義を求める人たちと知り合って交流する中で考える機会ができた。

「悪口を言ってはいけない」「人の足を引っ張るのはよくない」という普遍的で正しい教えがある。

この教えは本当にその通りで、悪口を言ったり人の足を引っ張っていたら信頼を失ってしまうと思う。そういう人とわざわざ関わりたいと思う人は少ないから、そっと距離を置かれてしまうことになる。だからこのアドバイスは正しくて、愛があって、真心が込められていると感じる。身近な人に語りかけるような暖かい言葉だと思う。

しかし「正義は押し付けるものではない」「自分を正しいと思った時、人は暴力的になる」という考えも分かる。本当にそうだと思う。例えば悪口を言ってはいけないという共通認識ができれば、自分の言動を悪口だろうかと省みることの一切ない人が更に声高に主張するようになるかもしれない。マイルドな悪口が適度に存在していることで自制心に乏しい人を牽制している実態もあるだろう。良くない言論を一掃すれば世の中が良くなるとは、私は思わない。「なぜあのような思いやりのない言い方が許されるのか?」という言い方で、誰かを徹底的に傷つけてしまうこともあると思う。

ならば「押し付けてはいけない」は正義だろうか?押し付けている人に対して「押し付けてはいけない」と思いながら、自分を正しいと思ったら暴力的にならないだろうか?

「正義を押し付ける問題」は、このような矛盾を抱えているから難しい。「押し付けてはいけない」と言う主張そのものが押し付けではないか?と考えることもできる。そしてこれは一概に単なる考えすぎや言葉遊びとは言えず、奥深い問題だと私は思う。

正しくありたいと思う気持ちの強さは人によって差があり、私は比較的強くないほうだと思う。どちらかというと捻くれ者で、人としての正しさが報われるとはあまり思えていないところがある。

正しさを求めることが悪いこととは全然思わない。むしろ良いことだし素晴らしいことだと思う。

間違ったことをあえてやると失敗する確率が高い。正しいことを続けることで人の信頼を裏切ることなく、人の役に立つことができる。間違っていると知っていながらあえて間違いばかりをやる人がいたら、危なっかしくて不安定で、信頼性に乏しいと思われるのが妥当で自然な流れかもしれない。

「正しい」ことは悪いことではないし、それどころか物事の指標になる素晴らしい尺度だと思う。

けれど誰かを強く攻撃している人が心の中で考えているのは「正しさの実行」であるという主張も、そうだろうな、分かる、と思う。

この矛盾に向き合ってみたいと思う。具体的で有名な話題の中に似たようなものはないか?と考えてみたい。

SDGsという正しい指標

国際的な指標として打ち出されている「SDGs」は、正しさのお手本のような存在かもしれない。

SDGsの17の目標はこちら。

1. 貧困をなくそう
2. 飢餓をゼロに
3. すべての人に健康と福祉を
4. 質の高い教育をみんなに
5. ジェンダー平等を実現しよう
6. 安全な水とトイレを世界中に
7. エネルギーをみんなに そしてクリーンに
8. 働きがいも経済成長も
9. 産業と技術革新の基盤をつくろう
10. 人や国の不平等をなくそう
11. 住み続けられるまちづくりを
12. つくる責任 つかう責任
13. 気候変動に具体的な対策を
14. 海の豊かさを守ろう
15. 陸の豊かさも守ろう
16. 平和と公正をすべての人に
17. パートナーシップで目標を達成しよう 

SDGs=持続可能な開発目標の精神は正しくて素晴らしい。しかしこれが「正しい」ゆえに強く、そのために見えにくくなっている観点はないだろうか。

SDGsの17の目標の13番目に「気候変動に具体的な対策を」がある。これは基本的に温室効果ガス(主に二酸化炭素(CO2)の排出量)を削減しようと呼びかける目標である。温暖化対策と言われるものが中心になってくる。

これは話題によくのぼる。目指しましょうという文脈だけではなく、本当に目指すべきだろうかという懐疑的な文脈でもよく話題になる。そしてSDGsを好意的に受け止めない考えの人が言及することの多い項目だと思う。

「SDGsは利権」という主張もある。経済競争の一環に過ぎないという捉え方だ。これは、SDGsを推進することで「新しいルール」を作成する側になり、ルールを決めた側が支配者になるという経済競争の側面に光を当てている。

温室効果ガス削減の問題はエネルギー問題に繋がっている。火力発電はCO2の排出量が多い。これは「原子力発電を稼働するか否か」という問題もある。SDGsを推進する欧州の中には、フランスやイギリスのように原子力発電を重視する姿勢を維持する国がある。 (参考: 欧州電気事業の最近の動向-経済産業省)

止めている原子力発電所を再稼働させようとする度に強く問題視される日本がSDGsの指標を追うことは、かなり不利なハンデを負った戦いにも思える。

SDGsが掲げる目標はとても正しくて美しい。批判したら人でなしみたいだから、おいそれと批判できない。でも、だからこそ強力に推進することも可能で「正しさを啓蒙していることの内実は、押し付け」となっている状況と捉えることもできる。

新たな指標を「正しさ」として推進すれば、経済においてのルールを作ることができる。EV(電気自動車)の目標も、その一環かもしれないと思う。性能の良いエンジンを作る日本に「勝てる」ルールを設定された可能性もある。

経済の覇者になるために、少しでも有利な取引にするために、どの国も知恵を絞って戦っているのだろうと思う。

日本がSDGsの正しさだけに着目して、不利な取引を持ちかけられている可能性を軽視した場合、正しさを真面目に追求した先に待っているのは「災害の時にエネルギー不足で苦しむ未来」かもしれない、とも思う。

電気自動車の救急車は、雪深い地域で救助に行けるだろうか。雪道でバッテリーがあがってしまわないだろうか。ガソリンを使えない車では、救急隊の安全に支障をきたさないだろうか。

SDGsに思ったことを「正義とは?」に応用してみる

もちろん、SDGsを掲げて環境保護に努力している人達の一人一人が有利な取引を思案している訳ではないと思う。むしろ全く逆で、次の世代に残す環境を壊したくないという真摯な愛情から行動に移している、愛情深くて本当に優しい人達だろうと思う。

SDGsに思うことを「正しさとは?」に応用してみると、正義を語って少々お節介に思われることもあったり、正しさを求めて批判して時々押し付けてしまうような人も、自己中心的な人が多いとは言い切れないと思う。他の人との境界線をあまり感じない人はお節介をすることもあるけれど、そういう人が身近な人に寄せる無償の優しさも存在する。身内でなくてもご飯を振る舞ったりするのはどちらかというとお節介気質を持った人と思う。家事育児などの「やって当たり前の地味な無給の仕事」を継続して成し遂げる人にも、そういう人が多いと感じる。他人と自分の境界線をあまり感じないからこそ、他人に無償で尽くすことがあまり苦にならないのかもしれないと思う。

正義を押し付けがちな人が自己中心的な訳ではないと思う。
ただ今はSNSの発信によって炎上で傷つけてしまう時代になったので、お節介なタイプの人の短所が膨れ上がってしまう場合もあると思う。「正義の押し付け」はこの文脈でよく語られる。

悪気がない方がタチが悪いとする考えもあるけれど、悪気がある方がもっとタチが悪いかもしれない。ただ悪気があまりに強ければ悪評が立って淘汰されるし、善意の押し付けはSNSの拡散でパワーを持つから、結果的に悪気の有無は人を傷つける度合いにあまり関連しないかもしれない。
個人的には、様々な理論で武装された正義は自己中心的な利益目的があるかもしれないと思う。信じてしまうと、利用されて使い捨てられる可能性もある。真摯な正しさは、あまり理論武装しないと思う。卑怯に思った言動を叩くなど、SNSの炎上の一端を担うことはあるかもしれないけれど、その人たちがプライベートで真摯な優しさを発揮している可能性は充分に考えられると思う。

「正しさ」を私はこのように捉えている。ここからは「正しさを押しつけるべきではない」と「押しつけるべきではないという主張も内実は押しつけである」について書いてみたい。

「押し付けるべきではない」と発想する人と、「押し付けるべきではないという主張の内実は押し付けである」と発想する人は、別の人であることが多い。そして言葉のあやをとらえて言い争っているというよりは、明確にイメージしているものがあり、何かを守るために発言しているように見える。

おそらく、目指すべきはこれだというイメージをどちらも具体的に持っていて、それが相容れないのではないかと感じる。

前者は「みんなが思いやりを持った優しい社会」をイメージしている。

後者は「思いやりが届かなくて取りこぼされた人に届けるための、嘘のない言葉」をイメージしている。

そう感じることが私は多い。

後者の人はあまり優しい雰囲気はないのだけど、前者の「押し付けるべきではない」考えを基礎にすると、だんだん何も言えなくなってくる気もする。内容のあることが言えなくなってくる。万人受けを意識した内容以外は言いにくくなるような気もする。

「押し付けてはいけない発想も、内実は押し付けである」理論に立つと、どうせ全ては押し付けなのだから自惚れることなく卑下することもなく、意見を書けるようになると私は感じている。

私のような捻くれ者が謙虚でいながら意見を言うことを辞めず、言葉を発するために選んだのは「正しさ」ではなく「正しさを押し付けない」でもなく、「正しさを押し付けないという考えも、押し付けでしかない」だった。

どれを選び取るのかは自由だと思う。好きなものを、信条に合うものを選ぶのがいいと思う。

どの考えも、何かを愛して何かを守って、誰かを大切にしていると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?