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雨の日はソファで散歩

 小雨降る日曜日、数回の引越しを経て、今も手元に残っているサバイバーな1冊を手に取りベッドで読み始めると、小さな飼い犬がすかさず、側に寄ってくる。短毛種なのでモフることは出来ないのだが、すべすべした感触と温かさを味わいながら、日本ドイツ文学界の至宝、種村季弘先生の溢れる知性と上品な不良さが絶妙に共存する文体に痺れる至福のひととき。インテリな不良とか、格好良すぎる。ソファーでなく、ソファなところからして、イカしてる。カウチなんて絶対なしである。自分はハードカバーの表紙の内側、本体に描かれた絵を見るのが大好きなのだが、カバーと同じ種村先生の横顔が小さくリフレインされているのも素敵だ。

 これは自慢なのだが(いきなり!)、前世紀に、この本の中で先生が渋谷の学校とお書きになっている大学で、毎週、先生の第二外国語の授業を受けていた。あの頃は、先生の偉大さも、自分の抜けてるさ加減も何もわかっていなかった。利口ぶりたい阿呆であったので、自分はもう若くないと一人前気取りだったが、実は若さだけはふんだんに持っていた。その若さという免罪符は使われることなく、使用期限が切れてしまった。若さに任せて、あんなことや、こんなことも、もれなくやっておけば良かった。全く惜しいことした。そんな機会もないのだが、かわいい小娘の諸氏には、転んでも傷がすぐ治る時代に転びまくっておくことを強くお勧めしたい。そんなあなたを助けたい人がいるかもしれないし、40になった時、あなたが転んだことは、あなたも周りも覚えてはいないだろう。もし、覚えているとしたら、それは既に小さな伝説になっているので、大いに自慢されたし。話を戻そう。今なら、先生のご著書を読みまくり、講義の後に出待ちをしてサインをお願いするなどという厚かましいこともできるし、先生が書かれている学校の帰り寄られていたお店をひとりで訪ねて、当時は飲めなかったお酒を飲むこともできるのに。本当にもったいない。もっとも、この御本は私が卒業してずいぶん経ってからの出版なのではあるが。そんなことを考えていたら、当時、麗しい枯れ方で、愚かな学生に全く熱のないクールな講義をしてくださっていた先生はお幾つだったのかと、気になり調べてみたところ、56歳であった。

 あと数年であの頃の先生と同い年になるなんて。

 あまりの衝撃に、勢いあまって、noteに加入してしまった。(笑)焦りとは漏れ出るのであろう。飼い犬も小さな足音と共にさり気なく、リヴィングルームに行ってしまった。

 至宝と自分を比べることはおこがましいことは承知の上で、こんなことになろうとは。知識も、教養も、仕事の実績も、信頼(以下果てしなく続いていくので省略)もないままに、肉体の若さだけを失って、渋谷を遠く離れた地にいる自分。

 先週、Cで始まる流行り病の影響で、自宅勤務の徒然に本棚を整理していたら、大学とは駅の反対側に住んでいる頃に書いたと思われる文章を発見した。全く覚えていなかったそれらは捨てることも出来ず、そのまま本棚に戻され、まだ読んでいない。

 読む人がいないのを良いことに、今後、気が向いた時にその文章をここに書き写してみるかもしれない。何かの役にたつかと問われたら、なんの役にもたたないと即答できるが、人生は後半に入った。しなければならないことも、してはいけないことも、もはやないのだ。役に立たないものも普通に存在できる世界を生きていきたい。飼い犬が戻って来た。ラップトップと私の胴体の間に身体をねじ込んで眠る気満々だ。因みに、彼は日々その可愛さを更新することにより、世界に貢献している、たいへん有益な生き物である。

種村先生、冠詞の活用を覚えず、順番が回ってくると、いつもいつも英語読みをしていたことを、ここで改めてお詫びすると共に、全自動で全員に単位を下さっていたお慈悲に心からお礼を申し上げます。いつか彼の地でお会いした折には、何度も引っ越しを共にした、この御本にご署名をいただければ、幸せです。


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