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kiite cafeにて

 薬を飲んでから眠くなるまでの一時間は、退屈としか言いようがない。
 ほろ酔いのように頭はふらふらするけれど、ただ脳みそに靄がかかる程度だ。枕に頭を乗せて、目を閉じようという気にはならない。
 私は背もたれに体をあずけ、モニターを眺めた。長方形の画面のなかを、白いコメントが泳いでいく。傷だらけのノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンが、ローテンポな電子音を垂れ流す。画面の下にある音符のマークをクリックして、マイリストに追加した。
 kiite。
 ボーカロイド音楽だけを聴くことができるそのサイトに、毎晩入り浸っている。私は重い指を引きずりながら、タイピングを始める。

『ライブでもない限り、ネットの音楽を聴くときは独りです。寂しいこともありますが、そんな時間が贅沢であることを、この曲を聴いて痛感しました。この曲に独りで耳を傾けられることが至高の贅沢。気ままで静かな時間をいただきました』

 そこまで書いて、「保存する」のボタンを押した。お気に入りの曲だけを集めたリストに、コメントが残る。その曲がどんな曲なのかを覚えておくための、備忘録だ。
 音楽の知識は、ない。それでも言葉にするのが大事だろうと思う。文章を書くのが好きで、それでも食っていけない自分の、ちょっとした反抗心。
 指で机を叩く。モニターの奥にある壁には、税金の督促状やら、明日の予定を示したメモが貼ってある。私は再び画面に視線を戻す。
 画面の左上に「cafe」という項目を見つける。ユーザーが推薦した曲を流してくれるサービスらしいが、使ったことはなかった。
 私は気まぐれにボタンを押した。途端、ロック調の曲が流れてきて、私は思わず音量を下げる。ぼんやりとしてきていた頭が、いくぶんか醒めてしまった。
 二分された画面の上には楽曲の動画。下半分には、いくつもの丸いアイコンが点在している。同接しているアカウントのものだろう。
 知らない曲に耳を傾けながら、そのアイコンたちを凝視した。初音ミクのイラストが描かれたものもあれば、森の画像というシンプルなものもある。流れるプールを遊泳する浮き輪のように、ゆったりと回転しているものもある。
 これだけの人間が、同じ時間に、同じ曲を聴いているのだ、と思う。
 ふと音楽が途切れた。再生が終わったらしい。清涼感のあるギターサウンドが、まだ耳のなかで鳴っている。画面の上半分に、読み込み中のマークがぴかぴかと光る。
 画面が切り替わった時、そこには自分の見知ったサムネイルがあった。右上に、自分のユーザー名がある。
 私はぼっと顔が熱くなった。同接したユーザーがマイリストに入れた曲を、自動でピックアップする仕様らしい。アカウントを設定して右も左も分からない頃、そういう設定をした気がする。
 『ライブでもない限り……』
 私は目をしばたいた。コメントも一緒に表示されるのか。
 背中に汗がにじみ、頭がくらくらする。コード進行も分からないズブの素人が、訳も分からぬまま書いたコメントが、五十人もの目にさらされている。
 ブラウザバックのボタンも押せぬまま、私はその場から動けなかった。
 ふと、モニターを赤色のハートが横切った。誰かがその曲を「お気に入り」に入れたのだ。サビにさしかかると、ハートの群れがぽつぽつと増えていく。
 つづけて、丸いアイコンのひとつから、ぽこん、と吹き出し飛び出した。
「コメントがいい」
私は思わずキーボードを叩いた。
「ありがとうございます」
 音楽は終わり、私のコメントは消える。読み込み中のマークが点滅し、軽快なシティポップが流れ始めた。
 それでも、ハートマークと吹き出しは、いつまでも頭に残っていた。
 私は目を閉じて、誰かが選んだ曲に耳を傾けた。緊張が解けたのか、砂浜に寄せる波のような眠気が、そっと押し寄せてくる。がくり、と体がかしいで、私は机に頭を乗せた。酒を飲むより心地よい眠気だった。

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