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人間が生きることを肯定したい・27「The Hours」

『それでも一日の終わりには次の一日が続いてゆく。
水曜、木曜、金曜・・・朝になって目が覚め、
空を見、公園を歩き・・・それからあのバラの花・・・
どれほど私がこういったもののいっさいを愛しているか
・・・どんなに一瞬一瞬を愛しているか・・・』

ヴァージニア・ウルフ
「ダロウェイ夫人」より
                     


「めぐりあう時間たち」という映画を観た。
今まで見たどんなジャンルのものとも違う映画だった。

1923年、精神を病んだ作家ヴァージニア・ウルフが
「ダロウェイ夫人」という物語を書き始める或る一日、

1951年、主婦のローラ・ブラウンがベッドの中で
「ダロウェイ夫人」を手にして始まる或る一日、

2001年、「ダロウェイ夫人」とあだ名されるクラリッサ・ヴォーンの
運命を変える或る一日。

三人の女性が、「ダロウェイ夫人」の物語をモチーフに、
その中で、あるいは外で、運命の一日を生きている。
そのたった一日を描いた映画だ。

映像の美しさ、構成の巧妙さ、心理描写の豊かさ、
人間の心への洞察、演技の迫力、伏線の見事さ、
何よりも、見終わってから延々と深まるばかりの余韻、
何をとっても傑作だと私は思ったが、
「三人の誰にも感情移入ができない」
「わからない。理解できない」
という感想も一方では多いようだ。

わかる人には痛いほどわかる。
でもこの映画を楽しめなかった人の方が、
あるいは今、自分の人生を楽しんでいるのかもしれないなぁ・・・
なんてふと思ってしまう。そんな映画だ。

原題は「The Hours」である。

映画が問いかけていることを考えると、
訳は「時の連なり」「時の積み重ね」といった意味あいの方が
近いのではないかと思う。

ヴァージニア、ローラ、クラリッサ、
それぞれの生き様を目の当たりにし、
私は雷に打たれたように、
あるひとつの事実を知った。


一日をただ生き抜くことが、
どんなに大変かということ。
一日をただ生き抜くことが、
どんなに愛しいかということ。


本当に大変なのだ。
本当は大変なのだ。
人間が、この一日を生き抜くということは。

人であるが故の苦しみというものがある。
確かに、ある。

そしてしみじみ痛感した。
胸でストンと理解した。
人は誰でも、自分ひとりを幸せにしてあげるだけで精一杯のはずだ、と。
それで当然なのだと。

人間は、ただ自分ひとりだけを幸せにする義務がある。
人間に課せられているのは、自分が幸せになること、
それだけなのだ。

言いかえれば、
神様が望んでいるのは、
あなた自身が幸せになること、
それだけなのだ。

そのためには、
何をしてもいい。
何処に行ってもいい。
何者になってもいい。

今、ここにいることを「良かった!嬉しい!幸せだ!」と、
体中で思える瞬間をつかまえる。
その瞬間の探索こそ、人生だ。
その瞬間の積み重ねこそ、真に幸せな人生だ。
その瞬間の積み重ね。「The Hours」


・・・ただし、その探索には、
たったひとつだけ守らねばならないルールがある。
たったひとつ。
それは、
「他人の人生を阻害しないこと」

支配しない、虐げない、制御しない、殺さない、
干渉しない、不当に無視をしない、欲望の対象にしない・・・。

人間は極端に関係性の生き物であるから、
たったひとつのそのルールを守ることが、
実は非常に困難であることをすぐに思い知ることになる。
人と人はその関係性において、相手に影響を与えざるを得ないからだ。
その中で、例え悪気がなくとも、
いや、愛情からですら、
相手の人生を阻害しているということはままある。

しかし、そのルールさえしっかり胸に留め置き、
他人への影響に慎重になりさえすれば、
後は自分の幸せを追求するのみだ。

「いや、そんなことはないだろう。
かの偉人と呼ばれる人々は皆、
他人の役に立ち、
他人を救い、
他人を幸せにしてきたではないか」

という反論が当然あろう。
まったくその通りである。
ただ私はそれに付け加えたいのである。

「そして彼らは、
他人のために生きることこそが、
まず『自分の』幸せであっただろう」と。

思春期の頃、
どれだけ深く愛するかということは、
どれだけ多くの犠牲をその人のために
この身に背負えるのかということだと思っていた。

でも違った。それは違う。
自分が幸せでないのに、
他人を幸せにできるはずがなかった。
自分ひとりも幸せにできずに、
他人の役に立とうなんて傲慢だった。

自分のための瞬間をつかまえよう。
まず自分が幸せになろう。

そのために必要な、
長すぎもせず短すぎもしない時間を
神様は私たちにくれている。


=====DEAR読者のみなさま=====


そして、自分の幸せの追求が、
「結果として」誰かの幸せに繋がっていたり、
添っていたりすれば、
それは奇跡のように素晴らしいことなんだと思います。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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