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河合隼雄を学ぶ・17「中空構造日本の深層②」

(前号の続きです)

河合隼雄は心理療法家として、個人の無意識的な心的過程の表現としての、「夢」「自由連想」「絵画などの表現活動」を素材として取り上げるが、一方、日本人全体としての心の深層構造を知るために、「神話」を重視するという。ケレーニィいわく「神話は本来、『なぜ』に答えるものではなく、『どこから』に答えるのである」。神話に表現されるわれわれの無意識とは、個人の意識によって抑圧された心的内容のみを指すのではなく、むしろ、ケレーニィのいう意味での始源的な出来ごとを内在するものを指す。

河合隼雄は『古事記』のパンテオンの構造のなかに、日本人を基礎づける根底を見る想いがしたという。そして、『古事記』神話における「中空構造」について論じている。

<古事記における「中空性」>

①アマテラス、ツクヨミ、スサノオというイザナキが生んだ三貴子のうち、ツクヨミに関する物語がほとんど現れない。太陽神であるアマテラスと相並んで存在しているのは、通常であれば月神であるツクヨミであるはずだが、そこにはスサノオが配置されている。日本人が、情緒的には太陽よりも月のほうをむしろ重要視しがちな気質であるにも関わらず、である。
②古事記冒頭の「天地初めてひらけしとき」、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒと三神がまず現れるが、名前からして中心的存在と思われるアメノミナカヌシに関して、ツクヨミと同じく、まったくの無為な存在である。
③天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三兄弟、ホデリ、ホスセリ、ホヲリのうち、ホデリは海幸、ホヲリは山幸として、その後有名な話が展開していくが、二番目のホスセリノミコトは、また無為の存在である。

①~③を考えてみると、神話の中で画期的な時点に出現する三人の神の中心が無為であるという共通点が明確になってくる。これを河合隼雄は『古事記』神話における中空性と呼んだ。日本神話の中心は「空」であり「無」である。このことは、それ以後発展した日本人の思想、宗教、社会構造などのプロトタイプになっているのではないか、と河合隼雄はいうのである。我が国の天皇制について考えるうえでも、示唆するところが大きいであろう。

<古事記における「巡回」>

・古事記においてアマテラスとスサノオは対立しているかに見えるが、それはユダヤ教における神とサタンのような、絶対的な善と悪の対立ではない。アマテラスとスサノオの誓約のシーンではスサノオが勝つが、その後、スサノオは乱暴を働き、高天の原を追われる。しかしスサノオはそこで抹殺されずに出雲の国で大活躍をする。このように、完全にどちらかを善なり中心なり悪なりと規定せず、時にはどちらかがそう見えても、次には適当な揺り戻しによってバランスが回復される。他の例でいえば、「国譲り」によってアマテラス系が中心に位置したかと思えるのだが、崇神天皇時代に出雲系の「三輪の大物主」を祭ることによって、また揺り戻しが起きている。何かを中心におくように見えながら、次にはそれと対立するものによってバランスを回復し、中心の空性を守るという現象が、繰り返し繰り返し日本神話に生じているのである。

イザナキ・イザナミの結婚においては、男性が先に言葉を発することを善しするので「男性優位」に思えるが、太陽神アマテラスは女性で「女性優位」にも思える。戦闘などの男性原理の機能をもつタカミムスヒはアマテラスなど高天の原の神々と関連が深く、生成・農作など女性原理の機能をもつカミムスヒはスサノオなど出雲系の神々と関連が深い。つまり、女神であるアマテラスは男性原理を背後に持ち、男神であるスサノオは女性原理を背後にもっているのである。

日本神話においては、何かの原理が完全に中心を占めるということはなく、中空のまわりを「巡回」するかのごとく、何かが起きては揺り戻す・正と反の変化が続くという類似の事象を少しずつ変化させながら繰り返すのである。永遠に中心点に到達することのないこの構造を、河合隼雄は「中空巡回形式」と呼んだ。西洋的な直線的発展モデルではなく、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっているのである。

<中空の球状マンダラ>

古事記において中心を占めるのは、地位あるいは場所はあるが、実体も働きもないものである。それは、権威あるもの、権力を持つものによる「統合」のモデルではなく、力も働きも持たない「中心」が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルである。中心が「空」であることは、善悪や正邪の判断を総体化する。「統合」を行うためには、絶対的な中心が存在し、相容れないものは周辺部に追いやるか殲滅するしかないが、「空」が中心であれば、決定的な戦いを避けることができる。

それは、対立するものの共存を許すモデルである。

中心が空であることは、一面極めて不安定であり、何かを中心に置きたくなるのも人間の心理である。そこで日本人が構造として心に描くのは、

中空の球の表面に、互いに適切な関係を持ちつつバランスをとって配置されている神々の姿

である。この中空の球状マンダラをそのまま意識的に把握するのは困難であるので、平面的な二次元マンダラで意識されることが多いが、その場合も中心は絶対的ではなく、投影面が変われば、中心も変わる。

中心が空であるために、そこへしばしば何ものかの侵入を許すが、結局は時とともに空に戻り、また他のものの侵入を許す構造でもある。このことは、日本が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心に置くかのように思わせながら、時とともにそれを「日本化」し、日本風に変化・融合しつつ、いつのまにか中心でなくしていく・・・という日本の特徴に顕著に表れている。

また、日本人は自分の投影した「中心」に強い執着心を持ち、強い関心をはらうが、時がきてその中心が変化すると、とたんに関心が消え失せ、新しい「中心」に関心を払う、という一面がある。

この「統合」よりも「均衡」を目指すという構造は、世界でも見直されてきている。中央への理不尽な侵入を防ぎ、均衡を保ち続けるために、均衡を支えているそれぞれの対立的存在の在り方が重要になってくるだろうと、河合隼雄は述べている。




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