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河合隼雄を学ぶ・20「魂にメスはいらない-ユング心理学講義-」

今回は、河合隼雄と詩人・谷川俊太郎の対談である「魂にメスはいらない」を取り上げたい。谷川俊太郎が聞き手となり、河合隼雄が自らのユング論を様々な角度から語っている。谷川俊太郎は単なる聞き手ではなく、自らの詩作のうえであらわれる無意識の問題などを照らし合わせながら、河合隼雄の話をさらなる深みへと誘っていく。

対談形式の本は、なかなか体系的にまとめられないので、印象的な発言を抜粋していきたいと思う。

【クライエントとの関わり】

<河合>ぼくらはよっぽど変なところまで感覚の受け入れ口があいているんでしょうね。それはもう、(患者の)症状がうつってかなわんときがありますよ。

<谷川>ミイラとりがミイラになるわけですね。

<河合>ミイラになるぐらいのところまでいかないと絶対に治らないと、ぼくは思います。つまり、向こうが溺れているときに、岸から上がれ上がれと叫ぶだけで助かるんだったら、誰でもできるでしょう。やっぱりこっちも水の中に飛び込まないとね。しかし、そのときにこっちも危ないと思ったら、行かないわけです。

<河合>ものすごくむずかしい問題を抱えたある患者がいましてね、そのときぼくは「北風が吹いたら氷は厚くなるし、南風が吹いたらちょっと薄くなる。一進一退みたいなものだけど、いつかは春が来るから」と思ったことがあります。要するに、ぼくにできることは「いつかは解けるはずだ」という一種の信念と、実際に解けるの待つということだけですね。あとは、氷が解けるのとぼくの命が果てるのとどっちが早いかというぐらいのことでしょう。

【夢】

<河合>分析の過程を記録する際に、夢のことを書くのはものすごくむずかしいです。というのは、特定の個人にとって非常に大きい意味を持っていても、なかなか万人共通にいかないでしょう。だから、特定の個人にとって非常に大きい意味を持ったことを普遍化し得る人、それが芸術家だと、ぼくは思うんです。

【アーキタイプ(集合的無意識)】

<谷川>ヘビとか爬虫類というのは、心の中の暗いもやもやしたものを表現するときに、民族を問わず共有して出てくるものと思っていていいんですか。

<河合>そう思います。ただ、ヘビの場合はちょっと複雑なんです。というのは、おもしろいことにヘビはいろんな神話に世界共通に「再生」のシンボルとして登場しているんです。夢でも、急激な良い変化が生じるときにヘビはよく出てきます。

<谷川>そういうのは、ヘビに関する神話なんかを全然知らなくても、自分の意識下でヘビというもののメタボリカルな意味をつかんでいるわけですね。

<河合>そこがユングの一番強調したいところです。つまり、知識として与えられなくても、表象可能性として誰もが生得的に持っていると。そこから、そもそもアーキタイプということを言い出したわけです。

<谷川>われわれものをつくる人間の立場から言うと、表象可能性を持っているということは、あらゆる人間に芸術家になれる可能性がひそんでいることでもあると言えるような気がしますね。

<河合>ぼくはそう思っています。ぼくらは「治療」という言葉を使っているけれども、言うならば、その人のクリエーションを助ける職業だと思っているんです。

【影】

<河合>ユングも影について「自分の生きなかった半面」という言い方をしています。つまり、自分の人生で、ある面を生きていくということは、誰でも別のある面は生きていないわけでしょう。その生きていない半面が、同性の姿をとって夢にあらわれるわけです。たとえば、よくこんな夢を見るでしょう。自動車に乗っていて、ハッと運転席を見ると、自分の嫌っているやつが運転していた。それが影の典型です。

<谷川>影というと、どうしても暗い半面というふうな連想につながるんですが、逆に、自分が生きていない人生の可能性みたいな明るい半面として出てくる影もあるんですか。

<河合>暗い半面がうまく統合されれば明るくなるわけです。

<谷川>だからといって、影が消滅するわけではないでしょう。影というのはいくら統合しても、必ず人間の中には残っているものですね。

<河合>われわれが生きている限り、無限に存在します。それからぼくらから見たらものすごくポジティブなことでも、その人にとってはこわいという場合が多いですね。だからその一つ一つに対して、すごい抵抗が生じるわけです。

【グレートマザー】

<河合>天皇というのは、グレートマザー的な投影を持っているでしょう。日本人の非常に深い心性とつながっているわけですから、天皇制はなくならないんですよ。そういうことも全部含めて考えていかないと、天皇制を批判することはできないとぼくは思っているんです。

<谷川>そうすると、「天皇陛下万歳!」も「お母さん!」も似たようなものなんですね。

<河合>ぼくはそう思います。それから「天皇の赤子」とか「天皇は民を全部平等にみる」とかいう言葉があったでしょう。グレートマザーにとって子どもは全部一緒ですね。つまり、天皇は日本人全体のお母さんなんです。

<谷川>だから「天皇陛下に一命を捧げて死ぬ」というふうに、死にも結びついている面があるわけですね。

<河合>ええ。グレートマザーが後ろについていたら、いくら死んだってかまわないわけです。どうせ生まれ変わるんですから。そういうものにバックアップされている人は平気で死んでいけるでしょう。何も天皇のために死ぬんじゃなくて、どうせ生まれ変わるんやったら、「まあ、このへんで」というわけですな。

【トリックスター】

<河合>トリックスターというのは、アフリカの神話とかインディアンの神話なんかによく出てくるんですけれども、いたずら者で変幻自在で途方もないことをやる道化ですね。ですからトリックスターは破壊性を持っているんだけれども、非常に思いがけない動きをするので、そこに思いがけない結合が生じて、クリエーションを促す役目を果たす場合が多い。それからトリックスターというのは、周辺と中心をつなぐもの、という意味を持っているんです。トリックスターのファンクションをいろいろ研究すると、どの場合にもそれがあるんですね。

【曼荼羅】

<河合>ぼくが日本で箱庭療法を始めてから、あるときまったく左右対称の曼荼羅が出てきまして、これはすごいという感じがした。カルフさんという分析家に見せたら、即座に「これは重症の人だ」と言いましたね。実際、つくったのは重症の人でした。つまり、そこまで世界を機械的な分け方によって統合するというのは、やっぱりおかしいわけです。

<谷川>そういえば、仏教の曼荼羅図絵というのも、左右に並んでいる仏さんの顔が違っていたりして、完全な対称じゃないですね。

<河合>顔をつぶさに見れば絶対に違います。確かに日本人というのは、不思議に左右対称を好まないですね。西洋の人は宝石が好きですが、日本人は自然石が好きでしょう。そういう点でも、何か日本人の心性というのはおもしろい感じがしました。

<谷川>もう一つ、ぼくは曼荼羅を見るたびに一種不安を感じるんです。それは何かというと、中心があるにも関わらず、そこに何か大事なものがないということなんです。幾何学的な図形としての中心はあるけれども、中心に全体を統合するようなものがなくて、むしろ周辺のほうが大きな意味を持っているでしょう。つまり、何か真ん中が空いているという感覚があるんです。

<河合>中心に物があるのもあるんです。だいたい仏教の曼荼羅図形というのは、中心が大日如来とか、そういうふうになっている。しかし、これはユングが言っているんですけれども、現代人の曼荼羅は中空なのが多いんです。というのは、自分が曼荼羅をつくる場合を考えてもらったら、一番よくわかると思うんです。何を置きますか。

<谷川>置けないです。置いたら、非常に浅薄な曼荼羅になるだろうと思う。もし置くとしたら中空の丸でしょうね。

<河合>ぼくもこのごろ、やっぱり曼荼羅の中心は中空じゃないかと思うんです。ぼくの考えている曼荼羅は立体なんです。中空なんだけれども、表現形式として二次元に投影すれば、つまり球ですから、どこでも中心になり得るわけです。だから、ある瞬間と次の瞬間でもう中心が変わっているというのが、ぼくの曼荼羅なんです。ぼくはそれを考えるようになって、ずいぶん気持ちが楽になりましたね。

【外界のとらえかた】

<河合>日本の大和言葉には「自然」という言葉はなかったんだそうです。それはつまり、自然を対象化するということはなかったということでしょう。「自然」という漢語が入ってきてからは、気軽に「自然」とか「自然主義」とか言ってるわけだけれども、それでもなお外界と自分というものを一種融合した形でとらえるところがある。

<谷川>日本人の場合は、外と内をきちんと分けて、内を外に投影するという意識はないと思うんです。「岩にしみいる蝉の声」という場合も、その風景は自分の内側とまったく融合しちゃってますよね

<河合>日本のものは非常に微妙なつながりを無意識のうちに張りめぐらしてあって、そういう切断(一つ一つの言葉がそれぞれ何のシンボルであるかというふうな区分け)を許容しないですね。ところが西洋人の場合は、われわれの目には眉唾めいて映るくらいはっきり切っていながら、別に不自由なく構築できて効果を発揮しているでしょう。そこが非常に違いますね。












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