見出し画像

人間が生きることを肯定したい・13「佐藤初女さんの生き方・2」~映画・地球交響曲(ガイアシンフォニー)より・その⑤~

『耐えがたきを耐え、
忍びがたきを忍び、
許さざるを許し、
それが愛。愛とは母の心』

佐藤初女著「おむすびの祈り」より

(前回の続き)
その本はさくらももこさんの可愛らしい挿絵で、
けっこう分厚い三部作だった。
子供向けに易しい言葉で書かれていて、
ユーモアと茶目っ気が全編を漂うものの、
実は炎のような信念と使命感で書かれたであろう。
アミという小さくて可愛い男の子の宇宙人が、
ペドゥリートという10歳の主人公の少年と、
ビンカという同じ歳くらいの違う星の少女を、
様々宇宙の旅に連れ出して、
「宇宙の基本法」を二人に教えていく、というお話だ。

「宇宙の基本法」・・・それは、
「愛がすべての基準であるということ」だとされている。
愛とはとても大きな意味の言葉で、
おそらく人間の中の神性を指すものだと思われる。
初女さんが、すべての人の中に見ているような。

主張はストレートだ。ストレートすぎる。
究極の理想論が、なんの迷いもなく貫かれている。
余りに迷いのない主張や断言は、
眉に唾をつける必要があるので、
アミの言葉すべてに素直にうなずけたわけではない。
けれども、根底を流れる思想はまぎれもなく、
ガイアシンフォニーに出てくる人々や、
私自身がメルマガを書きながら、
慎重に近づいて行っている思想と同じものだ。

私もペドゥリートやビンカになった気持ちで、
アミの話を聞いていた。
ふと疑問に思うところや、反発したいところや、
不安になってしまうところも、
ペドゥリートが良いタイミングでちゃんとアミに聞いてくれる。
だから、およそ不可能に思える理想論なのに、
子供のように素直にうなずかされてしまうのだ。

ペドゥリートが今まで食べたこともないくらいおいしい、
栄養たっぷりの宇宙のクルミをアミからもらったとき、
ペドゥリートはすぐに、
「おばあちゃんにいくつか、おみやげにもってかえっていい?」
と、アミにたずねた。
そして、帰ってからクルミをおばあちゃんに食べさせるときの、
ペドゥリートの嬉しそうな様子。

私もペドゥリートと同じだ。
私は家族や友人たちを間違えなく愛しているといえる。
この人たちからの電話だったら、
夜中であっても「なにごとだろう?!」と飛び起きるだろうし、
おいしいものや美しいもの、楽しいことであればあるほど、
分かち合いたいと願って躍起になるだろう。
この人たちを喜ばせようと様々プランを練ることや、
悲しみや苦しみを代わってあげたいと願い、
代わってあげられなくて無力感にさいなまれることも、
なんの努力もなく、自然に心に発生する気持ちだ。

もしも。
生けとし生けるもの、すべてを家族だと思えたら。
すべてを友達だと思えたら。
すべては分かち難いつながりの中で育まれている、
地球の子供たちなのだと分かったら。
初女さんのような「利他の心」は、当たり前に自然発生するのだろうか。

初女さんはこんなふうに語る。

『誰かのために尽くすことによって与えられる心の底からの喜び、
私はそれを”霊的な喜び”と呼んでいるのですが、
その霊的喜びを一度体験すると、
生きていく上で、これ以上の感動はないと思っています。
物的な喜びというのは、絶え間ない欲望の追求です。
果てしがありません。
それに対して霊的な喜びとは、
形もないし見返りもありません。
でも、傍から見ればどんなに些細なことであっても、
それは、その人にとって最大な喜びとなるのです。』

「特別な能力も、経済力も持たない、
ほんの小さな存在である私に、
何ができるでしょう。」
と初女さんは考え続け、そしてハッとひらめいたという。
「心」だと。
「心は水が涌き出るように無尽蔵に絶えることがない。
心を与えることは私にもできる。」
そう考えついたとき、初女さんの体中に血がかけめぐり、
周囲の風景が突然明るくなったような気がしたそうだ。

初女さんは、下駄をはいて歩くだけでも喀血するという大病のおかげで、
働けないことの辛さを身にしみて感じてきた。
それゆえに、人のために働けることにまさる喜びはないと、
心から思うようになったのだという。

ここで私は「働く」ということに思いをはせた。
「見返りのない行為」なんていうと、
すぐに「お金をもらわないボランティア活動」などを思い浮かべがちだが、
必ずしもそういうことではないと思う。
そもそもお金の本質は、物々交換を簡便化しただけのものであろう。
大昔の人々は、
「うちではお米ができました。
そちらでは野菜ができたんですね。
ちょうど野菜が欲しいので、
いくらかお米と交換しましょう。」
なんてやっていたものが、
いちいち欲しいものを物々交換していたのでは、
とてもやっていけなくなって、
お金という概念が生まれたのだろう。
だから、働いたらお金が貰えるのは当然である。

これも田口ランディさんのメルマガで読んだのだが、
中国や台湾の道教の考え方では、
お金が儲かるということは「神様の出した結果」だと考えるらしい。
自分の信じる道に進み、
損得抜きで一生懸命働き、
その結果お金が儲かったとしたら、
それは神様の「YES」だ。
だが、お金が入ってくることが目的になってはいけない。
お金は大切にするべきだが、
お金に執着してもいけない。
だからお金儲けは好きでも、
死者を弔うときは盛大にお金を燃やしたりする。

また、灰谷健次郎の「天の瞳」という小説の中で、
ものすごく好きな言葉がある。
読んだときは、並々ならぬ衝撃を受け、
以来、座右の銘に近い。

『ひとりの人間が愛する相手には限りがあるが、
仕事を通して人を愛すると、
その愛は無限に広がる。
そうして生きてはじめて、
人は神様からもらった命を生き切った、といえる。』

良い仕事は、会ったこともない沢山の人を幸せにする。
そういう仕事をしたい、そういう気持ちで仕事をしたい!と、
当時、強く心に決めたものだ。

働くというのは、本来そういう神聖な行為だ。
働くことは、祈りにもなりえるし、愛にもなりえる。
お金儲けに「後ろめたさ」が生まれるのは、
他人を騙したり、
仕事内容を省みることなく、
ただお金を得ることが目的となった場合であろう。

なるほど、信じた仕事、
もちろん仕事でなくてもいい、
世の中や人々のためにと信じた行いを一生懸命に貫けば、
それはすなわち利他である。
他人が喜ぶのを見て、自分も嬉しくなる。
そんな単純なことが、「利他の心」だ。

だが、何かがまだひっかかっている。
警告の信号が、弱くなりこそすれ、完全には消えない。
なんでだろう。まだ書けない。なんでだろう。

最近観にでかけた友人のお芝居のパンレットを読んでいて、はっとした。
このことだ、と思った。
私がひっかかっていたのは、このことだと。

ナチスドイツが遺伝性の病気の人を根絶やしにしようとして、
いわゆる障害者をみんな処分していったという歴史は有名だが、
実は同じようなことを、
ナチスの前にスウェーデンがやっていたそうだ。
スウェーデンは高福祉を実現し、
しかも経費をかけずに福祉をやっていくために、
経費を食いそうな人をあらかじめ生まれないようにしていた。
遺伝性の障害を持つ人が生まれてこないように、
1973年まで断種手術をやっていたそうなのだ。
スウェーデンは平和で中立で高福祉で理想的な国家だと思っていたと、
パンフレットにあったが、私もそう思っていた。
いったいどのくらいの人が、この事実を知っているだろう。

この記事を読んで、私ははっきり気がついた。
完全なる理想などありえない、と私は感じていたのだ。
それに近づこうと努力することは大事だ。
だが、何事も完璧・完全を求めれば、どこかにひずみが生まれる。
完璧・完全という名目のために、
弱いところ、暗いところが覆い隠される。
つぶされる。
そういう危険から目をそらしてはいけないのだと思った。

アミの話す世界も、
キリスト教の説く教えも、
未熟な私にとっては、
なんだか「きれいすぎる」のだった。

私の大好きな「イティハーサ」という漫画がある。
第4号でも紹介した。
幻想的で深遠な内容と隙のない美しい絵、
物語としてもロマンティックだ。
物語の終盤で、主人公の兄妹は、理想郷に辿りつく。
そこは唯一神を信じ、
心からの祈りすら捧げれば、
争いも迷いもない、
平和な世界で暮らしていける場所だった。
唯一神の天音様は、美しく善良な神だ。
調和に満ちた世界。
家族は仲良く、人々は助け合い、
子供たちは元気に駈け回る。
ここが最終目的地だ、
ここで心穏やかに暮らせと、
ここでもう休めと、
皆がそう勧めた。
そうするべきなのだろう。
ここには苦しみはない。
傷つけ合い、血を流し合うこともない。
だが、主人公の兄妹は、迷い、
自分の中で鳴り響く警告に耳を傾け、
最後の最後で心の声に従って、
違う道を選び取るのだ。

『ここに満つる天音様の御光は、
あまりに強くて何も見えないのです。
過去も、未来も、己のことも・・・』

『わたしはわたしであることを受け入れました・・・。
わたしであることの希望と絶望の両方を・・・。』

人間とは揺らぐもの。
人間とは迷うもの。
しかし、愛を持って道を探すもの。

そう。探しつづけなくてはいけない。
やっと何かが、すとんと胸に落ち着いた。

=====DEAR読者のみなさま=====

今回は2号続けての配信となりました。
それでも、佐藤初女さんという方の心根を、
充分に伝えきることになんて到底できなかったし、
「利他」ということの意味を、
まだまだ考えねばいけない気がしています。

長いのに、最後まで読んでくださった皆様、
ありがとうございました。

次回は、この号を受けて、
人であるということ、
について考えてみたいと思っています。

---------

※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?