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人間が生きることを肯定したい・20「因果関係」

『人間をこうやって因果論で解明するつもりになると、
人間の直観という働きを除外することになります。
直観が因果関係によって生じることは、決してない。』

「ミヒャエル・エンデと語る 作品・半生・世界観」より
                   

想像すらつかない、
自分の許容の器を遥かに超えた、
そんな理不尽で残酷な出来事を知ったとき。
そんな人間の心の闇をつきつけられたとき。
皆さんだったらどんな反応をとるだろう。

私の場合、まずは思考が凍結してしまう。
考えすぎると、自分の価値観がバラバラに崩壊させられそうで、
恐くて、まずは考えられなくなってしまう。
そういうときは、思考だけでなく、
体中を流れる血液も凍結してしまったかのように、
とても寒くなる。

しかし、ずっと考えずにいられる訳ではない。
気を抜くと、ふっと頭をよぎる。
そこで私は苦し紛れにこう思ってみるのだ。

「そういう因果なのだろうか。」

因果。
何事も、原因があって結果があるという考え方。
私はこの考え方が嫌いではない。
嫌いではないどころか、基本的にその考え方で生きている。
自分がしたことは、どういう形にしろ、必ず自分に帰って来る。
良いことも、悪いことも。

「悪いことをしたら、
それがぐるっと地球を一周して、
最後には自分の後ろ頭にコツンッとぶつかるんだよ」

幼い頃、母にそんなふうに言われたものだ。

どこかの国で蝶がはばたけば、
遠く離れた違う国で台風がおこるように、
目に見える形、分かりやすい形でなくても、
世の中のすべての事象は精緻な影響を与え合っている。
なるべくしてそうなる、という大きな「流れ」が存在する。
細い糸で繋がっているかのように。

今、自然に受け入れているこのような考え方の大元はどこかといえば、
おそらくヒンドゥー教や仏教に行き当たるだろう。
ヒンドゥー教の教えの中心は、
カルマ(業)とサンサーラ(輪廻)とモークシャ(解脱)であるが、
このカルマという教えが正に、因果ということに似ている。

曰く、カルマとは魂に絡みつく目に見えない力であって、
なした行為によりその魂に働きかけ、
来世の運命を決定付ける力である。

人も動物も生あるものは全て、
このカルマによって縛られている。

こうして全ては生死の流転を繰り返すが、
それが輪廻である。

そして、そのカルマと輪廻の束縛を断ち切った状態が解脱になる。

ヒンドゥー教はもともと、
東洋科学の結晶ヴェーダを起源とし、
土着の民間信仰や習俗を吸収しながら成立した宗教であり、
特定な開祖を持たず、
山川草木までが信仰の対象となっていて、
多神教の典型ともいえる。

そのため、八百万の神々と生きてきた日本人の心には、
なじみやすい宗教なのではないかと考えられる。

また、仏教の中心思想である縁起という教えでは、
どんなことも縁によって起こり、
単独に成立するものはないと謳っている。
これもまた因果ということであろう。

やはり仏教でも解脱を目指しており、
キリスト教やイスラム教と大きく違う点は、
解脱により、人は神にならなくてはならないという点である。

もともと内包している神性をどう目覚めさせるかということが、
ヒンドゥー教や仏教の思想なのである。

インドにおける、こんな逸話を聞いたことがある。

ある盲目の竪琴弾きがいたという。
竪琴弾きは、その音楽と優しい心根で、
周りに集まってくる傷ついた人々を癒した。
彼の周りの人々は彼の目が見えないことに同情し、聖者に言った。

「なぜあのように素晴らしい方が、
盲目という仕打ちを受けるのでしょう。
どうか彼の目を開いてください」

すると聖者はこう答えたという。

「確かに彼は素晴らしい。
だが、まだ私の耳には、
彼の音楽よりももっと強く、
前世で彼が目をつぶした、
大勢の人々の悲鳴が耳について離れないのだ」

だが、しばらくの後、彼の目は開いた。

これは、前世のカルマを今生で精算し、
新しい生き方と幸せを得たという教訓の話だろう。


『御魂(みたま)についた傷が、
癒されぬまま死ぬと、
その傷を抱えたまま、
また生まれてしまう・・・』


第4号の「転生」で、上記の言葉を紹介した。

新しい生を受けた瞬間、
前世の記憶は消えうせる。
だが、魂というその人の本質的な核の部分は、
すべてを覚えているらしい。

膨大な記憶の変遷があって、
今の自分がある。

だとすると、
本人は覚えていない何かの「因果」で物事が起きることがあるのだろうか。

傷つけるものと傷つけられるものがいた場合、
どちらにとってもそれは「因果」なのだろうか。
仕方のないことと割り切るしかない?
人知では到底コントロールできないことなのだと。

しかし、個々の事件のあまりの悲惨さを思うとき、
「因果関係」ではとても割り切れないものを感じる。

事件の加害者に対して、
「いつか罰があたって悪いことが起きるでしょう」
と割り切る気持ちになれるか。

または被害者に、
「あなたが前世で何か悪いことでもしたんでしょ。仕方ないよ」
と、誰が言えるだろうか。

もちろん、そう割り切ってしまえばラクだ。
そう割り切って、
他人事は他人事として整理して、
後は自分の身に同様の事件が起こらぬよう、ただひたすら祈れば良い。

ただ、私は割り切れない。
納得したくない。
感情がそれを許さない。

そういうとき、
ふと思い出す言葉があるのだ。
今までにも度々紹介した、
ドイツ児童文学の巨匠、ミヒャエル・エンデの言葉だ。

『人間に尊厳があるのは、
何よりもまず、
この地上では人間だけが因果関係の鎖を断ち切り、
自分の頭で創造できる唯一の存在だからだ。

人間をとてつもなく貴重にしているものは、
まさに、人間にそなわっている創造の能力なんだ。

つまり、どんな人間でも、
まったく新しい世界を生み出すことができる。
そこが人間と動物の違いだ。

動物は一種の因果関係の中にいて、
いわばそこの囚人でね、
本能の因果関係的サークルから飛び出すことができない。

どんなミツバチだって六角形の巣の代わりに五角形の巣を作ろうと、
突然決心することはできない。
どんなトラだって、決心して菜食主義になれるわけではない。

動物は決定されている。
人間は決定しなければならない。

だからぼくは、人間を単なる環境の、
それからまた遺伝の産物とみなす傾向には、
すべて断固反対なんだ。

マテリアリズムによれば、
人格というものを説明する方法には2種類しかない。
ひとつは遺伝物質でひとつは環境。

しかしぼくに言わせれば、
人格はこのファクターを超えるものなんだ。
人間には物質的なものを超えたものがあって、
そのおかげで人間は、
本質的に自由な存在になっている』


エンデは「本能」=「強制的な因果関係」という言葉で置き換えている。

本能はそもそも生き残っていくためのものであるから、
生き物が強制的な因果関係に捕らわれているのは、
極めて自然なことである。
身体の生命活動そのものが、
精緻な因果関係で成り立っていると言える。
闘争本能も「弱肉強食」という因果関係の中で生まれた。
そういう意味で、人間は他の動物となんら区別はない。

だが、エンデは言う。
人間だけが、その「強制的な因果関係」から抜け出すことができるのだと。
どういうことなのか。


新約聖書の「ヨハネの福音書」には、

「人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません」

とある。

人間は、自分の生命活動が停止することになると分かっていても、
他者を生かそうとすることがある。
この「自分に不利になると分かっていてもそうしてしまう」行動、
または、「なんの得にもならないのにそうしたい」という思い、
これこそが「強制的な因果関係」から逃れうる生き物としての
人間の可能性なのではないか。

なにも、生死をかけた側面でなくてもよい。

最近、立て続けに、
あるミュージシャンの歌声と、
あるピアニストの演奏を聞く機会があった。

そのミュージシャンが一声発した瞬間に、
胸がつまって涙が出た。
その歌声のうねりに、
その調べの懐かしさに、
激しく心を打たれた。

そのピアニストが10本の指から紡ぎ出す音楽は、
とても人間業とは思えなかった。

音に神が乗り移っている。
音が魂そのものとなっている。

神や魂が存在するかなとどいう議論はどうでもいい。
その音に乗り移っている何かを
それ以外に表現する言葉を持たないだけだ。

あの小さなひとりの人間から、
この音楽は生まれたんだ。
あの小さな体の中から、
あの数々の音楽は創られたんだ。
あの体のどこに、
あれだけの音楽が詰まっているのだろう。
一体どこから生まれてくるというんだろう。

不思議。とても不思議な気持ちになった。

そして素直に単純に、
ひとりの人間ができることってすごいと思った。

想像を絶する無限の可能性を、
ひとりの人間は内包している。

そのことを換言してくれるかのように、
インドのヴェーダの思想はこう教える。

「人間としての生を通じてのみ、
神が顕現されるのだ」


あの人が咽喉をつぶしても、
その魂はきっと歌を歌いたいと願うだろう。

あの人が10本の指を失っても、
その魂はきっとピアノを弾きたいと渇望するだろう。

因果関係の鎖を断ち切る衝動とは、
そういったものではないかと思う。

生命活動にとっても、
経済活動にとっても、
なんの得にもならないのに、
それなのに、憑かれたようにそれをしたいと望む行為がある。
激しい使命感と焦燥感。
それが良い方向に出れば、
息を呑む芸術ともなるし、
何世代にも渡って残る仕事ともなるし、
他人を救う純粋な優しさにもなろう。

しかしそれが悪い方向に出れば、
およそ考えつかないような残酷な行為となって顕われる。
そのどちらの可能性も秘めているのが人間なのだ。

神性をその存在に内包しながら、
因果関係の束縛の中で、
悟りきらず、迷い、傷つき、傷つけ、同じことを繰り返す。
人間の優しさと人間の残酷さ。
その余りの極端さに、私はしばしば動揺する。

ただ、何をおいても、
これだけは強く思う。
子供や、食べる気もない動物を虐げたくなる気持ちの持ち主が、
この世からいなくなって欲しい。
もちろん、そういう人を排除するという意味ではなく、
そういう気持ちになってしまうことがなくなればいいという意味だ。
綺麗事だと言われてもいい。
ひとりもいなくなって欲しい。
ゼロになってほしい。
そのことだけは、私は綺麗事を主張しつづけるし、
そのための世界のあり方とはどんなふうだろうと、
考えつづけることを諦めない。


=====DEAR読者のみなさま=====


因果関係の鎖を断ち切って顕われるもの。
人ひとりが創り出すもの。

人間としてこの世に生を受けたということは、
とてつもないチャンスを与えられたということだと、
インドの聖者は言いました。

人ひとりが創り出すもの。

私は、あなたは、何を創り出すのでしょうか。

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