人間が生きることを肯定したい・14「人であることの意味」
『人間の義務はね、
万物の霊長として
すべての生き物のために
祈ることなんだよ。
それが、天と地の間に垂直に立つことのできる
人間の役目だ。
祈り、すべての生命の魂を天に送ることが
人間の義務なんだ。
神はそのために人間を守ってくれるんだよ』
アイヌのシャーマン
アシリ・レラさんの言葉
私たちが、わざわざ人間として生を受けたのはどうしてだろう。
幾度も姿を変えて転生を繰り返すも、
今回、私が人間なのはどうしてだろう。
少し考えただけでは、
人間はこの地球にとって良い存在とは思えない。
人間ほど地球を搾取する動物はいない。
自らの欲望のために、生活のために、快適さのために、
瞬く間に地球の資源を搾取し、汚し、その調和を乱す存在だ。
しかし私は、そこで考えを止めたくない。
進化の過程の中で、人間は偶然できてしまったのだろうか。
脳が肥大し、知恵を持った動物は、偶然の産物か。
だとすれば人間は、偶然に中途半端な知恵をもったおかげで、
地球を道連れにしながら滅びていく種となるであろうと思う。
このままでいけば、いずれは。
しかし私は、そこで考えを止めたくない。
私は人間という種を諦めたくない。
人間として生を受けた、そのことに余りに無頓着のまま、
この一生を終えて、本当にいいのだろうか。
例えばドイツの児童文学家、ミヒャエル・エンデはいう。
「本能から逃れられるのは人間だけである。
ミツバチに『五角形の巣を作らず、八角形の巣を作れ』といっても無理である。
お腹のすいたネコの前にネズミを走らせ、それを取るなといっても無理である。
人間だけが、自分の意思で、本能に背く行動を選択できる」
動物的にただただ命を消費すること、
そのための機能が本能だとすれば、
人間は何ゆえ「本能に背く意思」を持つものとして創られたのか。
与えられた命を、ただ消費する以上のことを、
人間は求められているのではないのか。
よしんば、人間の出現が進化の過程の「偶然」だったとしても、
人間の持つ特性が変わるわけではない。
私たちは、何かできるのではないか。
与えられた命をただ消費する、それ以上のことを。
人間は確かに動物としては、他の生き物と境はない。
しかし、人間だからこそできること、
人間にしかできないことがあるのではないだろうか。
それは、驕り高ぶった意味ではなく、
むしろ課せられたものが重いという意味で。
冒頭のアシリ・レラさんの言葉は、
はっきりとした意味はつかめないものの、
強い衝撃を受け、心から離れず、
ずっと考え続けている言葉だ。
なにか、人間本来の務め、義務を思い出せ、と言われているようだ。
最近、ヒーリング・ミュージックについての本を読んでいたのだが、
ヒーリング・ミュージックの第一人者である人物が、
こんなことを言っていた。
「天、地、人とめぐり万物をかたちづくる力を、
再び天に戻すのが僕の仕事です」
そして、同じく人を癒す不思議な歌を歌う女性に、
「だから、あなたの御霊は宇宙と地球と人間を結ぶために
歌い続けた存在なんですよ」
と語りかけるのだ。
これもまた、はっきりと意味をつかめたわけではないのだが、
アシリ・レラさんの言葉と強烈にリンクして、
私を揺さぶったのである。
人間について語ろうとするとき、
すぐに「性善説」と「性悪説」を戦わせようとする人がいる。
私にはそれが、虚しく思えてならない。
それは片面はまだ瑞々しく、
片面は腐っているライチのどちらかだけを指差し、
「このライチは新鮮だ」
「いや、このライチは腐っている」と議論しているようなものだ。
その殻をむいてみようともしないで。
『水は流れて水となり、
風は吹いて風となる。
人はゆらいで人となる。』
前回も紹介した、イティハーサという漫画に出てくる言葉だ。
人間は様々に揺らぎ、
揺らぎの中で間違いを起こし、迷い、傷つけ合う。
だが、だからこそ見えてくるものがあり、
だからこそ人間なのだとも言える。
ふと気づいてライチの殻をむき、
その中に隠れていた実の甘さを知れば、
その実こそ自分の本質、魂なのだと知れば、
自分が本当は何者なのか知れる気がするのだ。
ヒーリング・ミュージックの本を電車の中で読み終わり、
ひとり歩いて家まで帰る道すがら、
私は自分に問うた。
いったい私は何を求めているというのか。
何のために読むのだろう。
何のために書くのだろう。
何のために考えるのだろう。
ひとつの答えがきらめいて降りてくる。
自分がこの世界に命としてあることを歓びたいからだ、と。
では、そのためには?
魂がやりたがっている仕事をすればいい。
人間として命をもらったからには、
私にはミッションがある。
必ずや、私だけの使命がある。
それをすればいい。
私はそれを必死で模索する手段として、
読んで、書いて、考えているのだ。
見つけたい。
心の声に誠実に敏感に生きていれば、
見つかると信じている。
だってもともと、それは私の使命なのだから。
このメルマガを書きながら知った、
「魂の仕事」をしているたくさんの人々のことを思うたび、
焦りを感じるのは、
心がざわめくのは、
私がまだ、自分の「魂の仕事」を見つけていないからだ。
うらやましくて、いてもたってもいられなくなるのだ。
見つけたい。
必ず見つけよう。
そして、メルマガを読んでくれる皆にちゃんと言うのだ。
「私だって見つかったよ。
すごく楽しくて幸せだよ。
生きてるって良いことだよ。
あなたにも、あなただけの使命があるんだよ。
それを見つけよう。
大丈夫。それは必ずあるものだから。」と。
ひとりひとりが魂の仕事に気づいてゆけば、
人間が地球を破壊していくことはなくなる気がする。
何故人を殺してはいけないのかなんて、
そんな問いに迷うこともなくなる気がするのだ。
第4号の「転生」という文章の最後で、
私は自分の中に重い問いを囲った。
「ならば、どんな希望がある?」と。
ここでひとつの答えの糸口をつかんだ気がする。
どんなに深い傷のついた魂であろうと、
その魂が望んでいる仕事が必ずあるのだ。
「傷」はしつこく「復讐せよ」とささやき続けるだろう。
人はそのささやきを魂自体の声だと錯覚する。
そして残酷な行為に駆り立てられる。
けれど、それは違うのだ。
魂自体は決して人間が創り出したものではないが、
魂の「傷」は、
いつかどこかで人間が人間につけたものだから。
すべての悲しみや苦しみや悲惨な出来事は、
天のせいではなく、神のせいではなく、
人間が自分で作り出すものだ。
いわば、自分の右手で自分の胸を切り裂いて、
傷つけたその右手を恨み、
今度は左手で右手を切りつけるようなものだ。
なんとか、自分なりの方法で傷を癒し、恨みを消し、
本来のすべすべした魂がやりがっていることを聞いてみれば、
天が与えた自分の使命に気づく。
それに気づき、憎しみの悪循環から解き放たれることは、
誰のためでもなく、自分のために必要なことなのだと思う。
人間に生まれたからこそ知る歓び、
人間だからこそできる使命、
人間がしなくてはいけない仕事は、
きっと知らなかった世界につながっている。
=====DEAR読者のみなさま=====
この第14号を書き終わろうとしたその頃、
アメリカで同時多発テロが起きました。
正に右手が左手を切りつける行為。
今だからこそ、思い知らねば。
奇跡的に救ってくれる神様はいません。
対処してくれる人格神などいません。
人間ひとりひとりの心の具現化が、
この世界の現象であり、
今起きている事実。
だからこそ、
ひとりひとりが今、祈らねば。
これ以上、右手が左手を襲うことのないように。
そして、どんなにどんなに痛くても、怒りが渦巻いても、
左手が右手に報復などすることのないように。
巻きこまれる他の部位がさらなる犠牲になることがないように。
右手が暴れるからといって右手を切り落とし、
左足が動かないからといって左足を切り落としていたら、
いつか体全体が死んでしまう!
報復などしてはだめ。絶対にだめよ。
どの国も地球というひとつの母体の一部で、
本当はすべてつながって、それでやっと生きているのに!
祈りたい。祈りたい。祈りたい。
もうやめてと。
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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。
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