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人間が生きることを肯定したい・10「象の生き方・死に方に学ぶ」~映画・地球交響曲(ガイアシンフォニー)より・その②~

『エレナは全てを知っています。
それでもなお人間を愛してくれているのです。』
動物保護活動家 ダフニー・シェルドリック

「エレナ!エレナ!」
ダフニーの声が草原に響く。
しばらくの静寂。気配はない。          
・・・(本当にいるのだろうか?)
不意にブッシュが揺れる。
木の向こうに巨大な姿。
・・・(来た!)
巨大な体に反して、その存在の静かさ、落ち着き。
ゆっくりとした足取り。
「エレナ!」
ダフニーが両腕を広げてエレナに近づく。
その年老いたメスの象は嬉しそうに、
ダフニーを長い鼻で抱きしめた。

象が人間を鼻でぎゅっと抱きしめる。
そんな光景、アニメの中だけでしか見たことなかった。

ダフニーは、ケニアのナイロビ国立公園の敷地内に住み、
そこで動物孤児院を運営している女性だ。
象牙密猟者によって親を殺された子象たちを育て、
野生に帰す活動を30年以上続けている。
エレナは、ダフニーが初めて育てたメスの象だ。
以来、エレナはダフニーが3歳まで育てた孤児たちを預かり、
その子が一人前に成長するまで、養母の役割を果たしている。
子象は3歳まではナイロビ国立公園でダフニーと暮らし、
時期が来るとツアボ国立公園に住むエレナに引き渡されるのである。

ダフニーは言う。
いわゆるテレパシーの能力は、
動物たちにとっては、
ごく当たり前のコミュニケーションの方法だが、
とくに象は優れたものを持っているそうだ。
象は、人間と同じように、
年長者から数多くのことを学んでいる。
年寄りのメス象は、
いつ乾季が来るのか、
そのときどこへ行けばいいのかなどを知っていて、
群れを導いている。
だから、象牙密猟により、
年寄りの象が数多く殺されると、
そこで多くの知識が失われ、
象の社会に致命的な混乱が起きる。
かつて、ツアボにメスのリーダーがいた。
彼女は広大なツアボ国立公園を隅から隅まで知り尽くしていて、
30年も群れを安全に導いていた。
その彼女は、実はまったく目が見えなかったそうである。

象牙の密猟は、
ある時期さかんに行われ、
多くの象が殺された。
そして不思議なことに、
象は自らの象牙が自分たちの社会に大きな悲劇をもたらしている事を、よく知っているという。
彼らは常に交信し、
エレナとて必ず、野生の仲間からその情報を得ていたに違いないと。
野生の象たちは、
殺された仲間の遺体から、
象牙だけを取り外し、砕き、遠くの森に運んで隠すという。
これが象たちの、理不尽な死を迎えた仲間への最後のはなむけなのだ。
しかも、彼らは人間と同じように、
仲間が亡くなった場所を、何度も何度も訪れるという。
象たちは「死」の意味を知っている。
そしてエレナは、18歳の頃、
初めて仲間の死体を見たとき、
その死体から象牙だけを取り外そうとしたという。
孤児として育ったエレナには、
一度もその経験がなかったはずなのに。
エレナは、野生の仲間からすべての情報を得ている。
人間の残酷さを知っている。
それでもなお、エレナは人間を愛してくれているのだと、
ダフニーはそう言うのだ。

また象はその巨大な体を維持するため、
1日300ポンドもの植物を食べる。
これは一見、自然を破壊しているように見えるが、
実は正反対なのだそうだ。
長い目で見ると、
彼らは森を草原に変え、
草原をまた森に戻すという、
自然の循環に大きな役割を果たしている。
そのため象の消化システムは、
食べたものの60%をわざわざそのまま外に出してしまうという、
非常に非効率的なものになっている。
象のお腹に入った種が、
そのまま100マイルも遠くに運ばれ、
そこで草原や森に再生していく。

さらに、象は少しでも食べ過ぎたり、
栄養が足りなかったりすると、
たちまち力を失い死んでいくという。
干ばつが続き、自然界に食べ物がなくなったとき、
まっさきに死ぬのは象たちなのだそうだ。
象たちは、死を受け入れることを決意すると、
自ら食べることをやめる。
食べるのをやめた象は、わずか1日で死にいたる。
そしてその死は、静かで平和な死だ。

ダフニーは言う。
象は自分たちの命を自然の大きな力に任せながら、
その中で高度な知恵を働かせているのだと。
こうした象の生き方には、
人間に対する重要な教えが含まれていると、
ダフニーは考えている。

ここで私は、最近読んだ「からだのひみつ」という本の
内容の一部を思い出した。
その部分をかいつまんでまとめると、こういう内容だった。

『人間という存在は、個人に焦点をあてるときと、
人間という「種」に焦点をあてるときとで、
「死」というものの捉え方が違う。
個人の死は悲しむべきものだが、
人間という種にとっては、
死は必要不可欠なものであって、
生命は四十億年もの昔に、
死を含んだ生を選択している。
死をもって命を次世代に連鎖させるというシステムを、
生命は選んだ。
死は命を繋ぐための営みのひとつであり、
すべての生き物に平等に与えられた使命なのである。
しかしその選択は、
人間の「意識」が生まれるはるか昔に行われたことで、
「何故、死をもって命を連鎖させなければいけないのか」
という問いの答えはない。
だから人間は死を考えると不安になる。
個人的な死の悲しさ、悲惨さにとらわれ、
死の持つ本質的な意味をなかなか受け入れられない。
「からだ」について考えることは、
自分はいつか死ぬということを受け入れることだ。
意識はそれを考えるのをいやがるから、
人は長く、からだについて考えるのをやめてしまった。
「生き物としての自分、次に命を繋ぐ存在としての私」
という認識が今、必要となってきている。
意識を持ってこの大地に立つ唯一の生命体として、
死を受け入れるための思想を新しく作りなおし、
そしてそれを次世代に伝えていかなくてはならない』

上の内容はもちろん言うまでもなく、
いたずらに死を賛美しているのではない。
「持って生まれた『からだ』というものを、
どれだけ本当に知っている?
よりよく生きるためには、
『からだ』を知らなくてはいけないし、
『からだ』を知るということは、
死ということも受け入れることだよ」
と言いたいのだと思う。

確かに個体の死は悲しい。
もし明日、私の家族が死んだら、
私は身をよじって泣き続けるだろう。
もしそれが理不尽な死であれば、
間違えなく天を恨むだろう。

だが、死の本質は悲しみだけなのだろうか。
私の祖父は眠るように亡くなった(であろうと思われる。)
家族が気づいたときには、もう息はなかったのだが、
最初はソファーでうたた寝しているのだと思った。
父は普通に何度か起こそうとした。
テレビもついたままだった。
年賀状も書きかけのままだった。
なんの前触れもなく、
ふと心臓が気まぐれに止まったみたいだった。
医者は「おそらくご自分が亡くなったことすら気づかなかったと思いますよ」
と言っていた。
それはそれは穏やかな死に顔だった。
本人がずっと望んでいた死に際であったろう。
「誰にも迷惑をかけず、ぽっくり逝きたい」というのが、
祖父の口癖だったからである。
いつも優しく、いくら歳をとってもどこか毅然としていた祖父を、
私は大変尊敬していたが、逝き方すら憧れた。
お葬式ではみんな泣いたが、
その悲しみの中には、
どこかしら温かさ、穏やかさがあった。
祖父の死は、象たちの死にざまに似ていた。

生きることと死ぬことは繋がっている。
生きることも死ぬことも自然の流れの途中でしかない。

ダフニーもまた、
地球の未来については楽観的だという。
間に合わなくなる前に、
人間は必ず気づくと思うと。
ダフニーはこう語る。
ひとつの種の絶滅は、
必ず他の種に大きな影響を与える。
なぜなら、すべての種は鎖のようにお互い結び合わされているので、
そのひとつが切れると全体がバラバラになってしまうからである。
地球はそれ自体が大きな生き物であり、
すべての種はその体の一部である。
だから、ひとつの種の絶滅は、
自分の指を切ったり、
目を失ったりするのと同じことで、
人間はそのことに気づくべき時に来ている。
そして象は、他の種や仲間たちと平和に共存する生き方と、
そういう生き方に対する誇りや叡智を、
人間に教えてくれているのだ。

エレナが人間を愛し続けてくれるのは、
人間もまた、大きな流れの一部だと、
自分たちと同じ地球の一部だと、
そう知っていてくれるからではないだろうか。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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