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人間が生きることを肯定したい・12「佐藤初女さんの生き方・1」~映画・地球交響曲(ガイアシンフォニー)より・その④~

『あるとき神父様から、
あなたにとって祈りとは何ですかって聞かれたときに、
私はとっさに「生活です」って答えたんです。』
森のイスキア主宰・佐藤初女

佐藤初女さんの在り方に強く心打たれ、
次は絶対に初女さんのことを書くんだ、
ということは決めていたのに、
私はなかなか書き出すことができなかった。
それが何故なのかということに、
今日私はふと気がついた。
自分の中に「わからない」という疑問符がくすぶっているからだ。
何がわからないのかは、よくわかっている。
初女さんの自然でそして圧倒的な「利他の心」が、である。

初女さんは「森のイスキア」という施設にいる。
そこが初女さんの家である。
「森のイスキア」は青森の岩木山の麓にひっそりと建っている。
「森のイスキア」は、ただその戸をたたけば、誰でもが泊まれる。
昨年は約350人の人が泊まっていったそうだ。
傷ついて、生きる力を失った人々が、
なんとか最後の力をふりしぼって辿り着き、羽を休める場所だ。
初女さんは、訪れる人々に、おいしいごはんを作る。
その季節に土地で採れる新鮮な材料を使って。
初女さんの作ったおにぎりを食べて、
自殺しようとしていた若者が、生きる決意をしたという。
初女さんの作ったごはんを食べていると、
失われていた生きる力が、再び蘇ってくるのだという。

『私、”面倒くさい”っていうのが一番いやなんです。
ある線までは誰でもがやること。
そこを一歩越えるか越えないかで、
人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、
このへんでいいだろうというところを一歩、
また一歩越えて。』

食べ物なら、今の日本には溢れている。
おいしいものもたくさんある。
では何故、初女さんのごはんだけが、
病んだ人に力を与えるのだろう。
初女さんの梅干のおにぎりだけを求めて、
全国から人が集まるのだろう。

『夜中にふっと目が覚めると、
お漬物がどうなっているかなあ、
と思いますので、起きていって様子を見ます。
そうするとお漬物が「もうちょっとお水が欲しいよ」とか、
「この石はもう重いよ」と思って、
私を待っていたような感じがします。』

『私がお料理をするときに、
とても大切にしている道具のひとつに、
すりこぎがあります。
私が結婚するとき、叔父からお祝いに、
すりこぎを三本もらいました。
五十年の間、毎日のように使ってきましたので、
だんだんと減って、
とうとう最後の一本になってしまいました。
すっている間はずっと、
家族やお客様など、
食べてもらう人のことを思っています。
今でしたらミキサーやカッターを使う方が早いのでしょうが、
やはりゴマもクルミも、
すりこぎでする方がずっとおいしいと思います。』

ガイアシンフォニー第二番のファーストシーンは、
初女さんがイスキアの裏の雪の中から、
ふきのとうを掘り出すシーンである。
初女さんは小さな枯れ枝を持って、
シャカシャカとさわやかな音を響かせて、
まだ雪の下にあるふきのとうの周りの雪をやさしく取りのぞいている。
龍村監督は、自分たちの夕食に、
初女さんがふきのとうの味噌和えをつくるというので、
せっかくだから、とごく気軽に撮り始めたこの初女さんの様子に、
胸が熱くなるほどの感激を覚えたという。
龍村監督はこう言う。
ふきのとうが命であるかぎり、
ふきのとうにも必ず「心」がある。
そのふきのとうの「心」になって考えてみると、
初女さんの”面倒くさい”採り方の意味がよくわかってくる。
ふきのとうは、半年もの長い間、
3メートル近い雪の下で、
その重さと寒さに耐えながら、
春の訪れを待っていた。
春が近づいて、頭上の雪が少しずつ溶けはじめ、
暖かそうな初春の日差しが、
まだ頭上に残っている雪を通して、
キラキラと降り注いでいる。

「ヨシッ!もうすぐ春だ。これからボクはウンと大きくなろう」

そう思って喜びと共に命の力をみなぎらせ始めているふきのとうに、
突然、無骨で恐ろしげなスコップが、
頭上から振り下ろされてきたらどうだろう。
恐怖のために一瞬に身を縮め、
「喜びの心」は一気に吹き飛んでしまうだろう。
ところが、枯れ枝でやさしく周りの雪をとりのぞかれ、
だんだんに日の光が強くなって、
最後の最後にそっと土から離されたふきのとうには、
「大きくなろう」という生命力がいっぱいつまったままなのだ、と。

「元の生命が残っているというか、
お料理をすることによって、
元の生命をまた新しく活かすんです。」

と、初女さんは映画の中で語る。
自然の食材の一つ一つには、皆、
かけがえのない命が宿っていて、
食べるというのは、その命をいただくことだ。
食べることを通して、自然から命をいただき、
それを私たちの命につないでいく。
だからお料理は、素材との出会いから仕上げまで、
片時も心を離すことができない。
心を込めてつくり、
おいしくいただくこと、
それはいただいた命への感謝であり、
祈りなのだと語る。

食べることは、他の命を奪う。
だから、残酷だとか罪悪だとか考える人がいる。
だが、初女さんはそうは考えていないだろう。
私たちは「生かされている」。
地球の命の恵みとそのめぐりめぐる循環によって。
他の存在があるからこそ、今こうして生きている。
「食べる」という行為は、
そのことを認識する最たるものなのではないか。

しかし人間はいつのまにか、
他の生命を、単に自分の欲望を満たすためだけの、
食材=モノと考えるようになってきた。
他の生命に対する想像力、感謝をふとすると忘れがちである。
「食べること」自体が悪なのではなく、
「どう食べるか」が悪にもなりうる、ということだと思う。

実は初女さんのことは、
ガイアシンフォニーを観る前に、
田口ランディさんの「森のイスキアでおにぎりを学ぶ」
という題名のメルマガで知っていた。
私はそのメルマガでぼろぼろ泣いた。
ランディさんのお兄さんは、ひきこもりのすえ、餓死している。
ランディさんは自分がどうしてイスキアに来たのかを初女さんに必死に訴えた。
初女さんはそれをずっと黙って聞き、
ランディさんが一気にしゃべり終わったあとも、
しばらくは黙ってランディさんを顔を見ているだけだったという。
そして突然「娘になりましょう」と言った。
「ここにいるみんなが証人になりますから、私の娘になりましょう」
ランディさんの知りたいことを自分から学びなさい、教えてあげます、
というお返事に他ならなかった。
そうやって初対面で突然に、
全人格、全存在をがばっと受け入れられたランディさんは、
「ありがとうございます」と、ただ泣くことしかできなかったという。

そしてランディさんは、
初女さんと朝ご飯を一緒につくった。
初女さんにならい、
じゃがいももにんじんも、
皮をなでるように落としていく。
うすく、やさしく、じゃがいもが痛がらないように
ゆっくりむいていく。

『それからおにぎりの作り方を教えていただいた。
初女さんはごはんをしゃもじですくうときも、
丁寧に丁寧に全神経を傾ける。
「お米を潰さないように。お米が息ができるように」そう言う。
「ぎゅっとにぎると、お米が息ができないから、
息ができるようににぎるんです」
お米のことを考えておにぎりをにぎったのなんて、
生まれて初めてだった。
言われた通りに「お米が息ができるように」と思う。
すると、なんとなく自分の手の「圧」を身体が加減している。
お米の息について知っているのは頭ではない。
お米が息ができる「圧」を知っているのは、
まぎれもなく私の身体、私の手だった。
お米の息を思うとき、私の息も生き返る。
このようにして、人は他を思い、
その思いによって自分もまた生かされるのだ。
(中略)
なにが違うのかわからない。
でも、決定的に何かが違う。
慈しみ愛された食物には、
命が宿るとしか思えない。
その息をするおにぎりを食べるとき、
人間の息もまた吹きかえす。
なんという不思議だ。
私以外のものを慈しむことは、
自分を愛することと同義なのだ。』

田口ランディさんは、

「世界と身体感覚で繋がること」
「”自分の内的世界”と”身体”と”外的世界”を統合して生きること」

それをして生きている人たちが、
ある尊厳と品格を漂わせることを知る。

意識が知らないことを、体は知っている。
他の生命たちの息づかいを、体は感じている。
理性や環境がシャットダウンしている世界とのつながりを、
自分の体が教えてくれる。
そう思うとき、体というものが今までとは違う存在に思えてくる。

森のイスキアに訪れる人々が、何故不思議に癒されるのか。
それは食べ物の中にまだ宿っている命をもらい、
他者の息づかいを感じながら生きる初女さんの態度に触れ、
自分の命が世界のどこに位置しているのか、
それをなんとなく受け取るからではないだろうか。

しかし最後に、冒頭の疑問符にかえってくる。
初女さんは、決して体が強くない。
若い頃に胸の大病をわずらって、
一時期は声をたてて笑うだけでも血管が切れ、
大喀血をする状態だった。
その病気をしたときに、
注射やお薬では本当に元気にはならない、
おいしい食べ物を食べたときには強く力が湧くので、
これは食べ物だ、
食べ物を大切に食べて元気になるんだ、
そう思ったそうである。
そうして病気に勝ったとはいえ、
疲れると背骨が張って、
動くのも息をするのも苦しくなるという。
なにより、もう79歳というお歳なのだ。

それなのに、初女さんの枕元には、いつも電話がある。
寝静まった真夜中に、
苦しんでいる人から電話がかかってくるからだ。
体が辛くて布団に入り、
うとうとしかけたところで戸が鳴る。
初女さんはきちんと身支度を整え、玄関に立つ。
「誰だろう?」と不安に思い、
開けて良いかどうか葛藤はおこる。
けれども、今外に立っているのが神様だったら、
また、自分の中に神様がいらっしゃったら、
きっと戸を開けるだろう、
そう思って初女さんは鍵を開けるのだそうだ。
そして、自分はものも食べられないほど体が辛いのに、
その人のためにごはんの用意を始める。

「ひとりひとりの中に、神が宿っている」

だから、どういう人と出会う場合でも、
その人の中にいる神様との出会いなのだ、と初女さんは言う。
初女さんは、敬虔なキリスト教徒だ。
小学校にあがる前の幼い少女だった頃から、
教会の鐘の響きにどういようもなく惹かれ、
なんども教会の前にたたずんでいたという。
「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」
キリスト教の教えは、初女さんの生活そのものである。

何故この人は、そのように生きられるのだろう。
エゴは、欲は、憎しみは、ないのだろうか。
わからない。
どうしてそんなふうに生きられるのだろう。
私だったら、疲れていたら温かい布団でいつまでも寝ていたい。
わざわざ起きていって、
見も知らぬ人の話を、えんえんと聞きたくなんてない。
一年中同じ所で人々の世話をするよりも、
世界中を旅行してみたい。
嫌いな人だっている。
嫌いな人の中にも神性が宿るのだと、
そう頭で考えようと努力することはできても、
気持ちはそれを受け入れない。

初女さんの語る言葉、
初女さんの「食べる」という行為への考え方、
初女さんの生活という祈り、
すべてに深く深く心打たれながら、
私には最後のところで、
初女さんの生き方が、わからなかった。
「私もそんなふうに生きよう!」と素直に思えなかった。
そこで立ちどまざるを得なかった。

そんなとき、何気なく手に取った、
子供向けの三部作の本が、
易しい言葉で私の疑問符に
こんこんと答えを説いてくれたのである。

(次回に続く)                  


=====DEAR読者のみなさま=====


佐藤初女さんのことは、とても1回では収まらなかったので、
2回に分けて書きたいと思います。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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