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河合隼雄を学ぶ・10「これからの日本①」

この本は、河合隼雄がさまざまなところに呼ばれて講演したものの記録集である。

テーマは講演ごとに違うのだが、すべて「これからの日本」ということに何らかの形で関連しているようだ、と河合隼雄もあとがきで述べている。
それぞれの講演から、特に印象的だった内容を紹介していきたい。

【心の子育て】

小・中・高校にスクールカウンセラーが入るようになり、ある中学校で、茶色い髪でピアスをした子がやってきた。はじめのうちは雑談ばかりしていたが、このカウンセラーは「話せる大人」だとその子が認めたとき、急に態度が変わって、こんなことを聞いてきたという。

「先生、ほんとうはどう思って生きているの」
「人生、何のために生きているの」

カウンセラーはすぐに答えは言えない。しかし、「あなたに私はこう思って人生を生きているっていうことを言えるほどはっかり分かっていない。分かっていないけれど、そういうことを考えるというのはものすごく大事なことだと思っている」と言ったら、その子は「そう、そんなら私来るわ」と言って、それからもカウンセラーと話に来た。そして、「私はこういうことを考えているんだけど、誰とも話をする人がいないんだ」と言ったそうだ。自分はみんなとは違うということを示すために、みんなと違う格好でもしないと仕方がない、という気持ちであったのだが、カウンセラーと話せるようになって、格好で主張する必要がなくなった。自然と普通の姿になったのだが、学校の先生は「カウンセラーの先生はいったいどういうご指導をされましたか」と驚いていたという。

子どもの心を大事にしたいのであれば、モノを操作するように子どもを操作しようとするのではなく、子どもの心が動くような場を我々が提供できるかだと、河合隼雄はいう。

「何のために生きているの」

この問いを、私自身、中学生の頃、切実に考えていた。幸い、そういうことをじっくり語れる友人に恵まれたが、誰も真剣に聞いてくれなかったとしたら、かなり苦しかったのではないかと思う。

【象徴としての父殺し・母殺し】

ユング派の考え方には、「死と再生」という重要な概念がある。ユング派は、一度象徴的な「親殺し・子殺し」を経験してこそ、より有意義な親子関係が結べる、というふうに考える。象徴的な「親殺し・子殺し」は、親離れ・子離れのためには、不可欠なイニシエーションだと捉えているのである。

例えば、昔は元服式で男子の前髪を切ったが、あれは実は首斬りの象徴的表現なのだという。首を斬る代わりに、前髪を切った。そして武士の子弟は元服を機に名前を変えた。例えば、「牛若丸」が「義経」になった。そうすることで、「牛若丸という子どもは本日を限りに死んで、義経という大人に生まれ変わった。だから、明日からはもう大人として振る舞わなければならない。母親に甘えたりしてはならんぞ」ということを、暗に命じたのである。実に巧みな「子殺し」のイニシエーションだと河合隼雄はいう。

現代の日本には、ただのパーティとしての成人式はあれど、イニシエーションがなくなってしまった。そのため、子離れ・親離れが困難になっている。

殊に息子が象徴的な「母殺し」を経験することは大切なことである。「うちの息子は反抗期もなく素直ないい子でした」なんていうのは、実は非常に困ったことで、親離れのために本来母親に向けられるべき反発心を、他人にぶつけて迷惑をかけている人になっている可能性が高い。

私の母親はピアノ教師をやっているのだが、お母さんに逆らえない、家で「いい子」をやっている子ほど、ピアノ教室ではひどい振舞いをするという。ピアノをめちゃくちゃにたたく、プイと横を向いたまま弾こうとしない、など。「そんなに困ったことをするなら、お母さんに相談するよ」と言うと、泣かんばかりになって「やめて」と懇願するのだという。

昔話や神話を通じて、「親殺し・子殺し」を体験すると、子どもは頭ではなく、腹の底で人生の真実を理解する。悲劇ではなく「死と再生」、イニシエーションとしての「親殺し」の機会が、子どもたちには必要なのであろう。

【いま、日本人にとって家族とは】

日本人の家族観は多かれ少なかれ、いまだに「家」中心である。結婚式会場でも「〇〇家と〇〇家の結婚式」というように表示されるが、これは日本における結婚が、個と個の契約というより、「イエ」同士が結びつくという意味合いが根強いことによるのだと思う。韓国では「血族」が重要であるが、日本は血族というより「イエ」。なので、「イエ」を存続させるためには養子が家を継いでもいいし、次男のほうが優秀なら、次男が家を継いでもいい。「イエ」が繁栄し存続していくことが最優先された。

では、なぜそこまで「イエ」を大切にするのか。その背景には「先祖崇拝」があると河合隼雄はいう。「イエ」を存続していれば、「ご先祖様」を守れる。なぜ「ご先祖様」を守るかといえば、自分自身の「死後の安楽」を保証してもらうためである。死んだあとも「〇〇家の墓」に入り、子孫がずっと墓守りをして死後の安楽を保証してくれる。つまり、死後の世界は、生きている世界よりずーっと長く続くものであるから、死後の安楽の保証がないと、不安で不安で死んでも死にきれない、という気持ちが日本人の中にあるのだという。先行きの不安がないと、人は生きている間も心穏やかに暮らせる。

逆にいうと、現代の若者たちは、「イエ」を守ることで死後が安心だ、という感覚が薄くなっている。かといって、欧米のように、宗教への確固たる信仰に支えられているわけでもない。

死ぬことが不安だ、という感覚は、生きることが不安だ、という感覚と同義なのではないかと私は思う。私たちが、安心して精一杯生きるためには、何が拠りどころになるのだろう。いまだに「イエ」が拠りどころだという人はそれでいい。しかし、拠るべき「イエ」を持たない者は。

新しい時代の、新しい家族観、ということを河合隼雄は触れている。たとえ独身の人であっても、心の中に家族というものは必ず持っている。一緒に暮らしている人だけが家族ではない。血のつながりがある人だけが家族ではない。新しい家族観が、私たち拠りどころになっていく可能性は多いにあると思う。

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