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人間が生きることを肯定したい・11「知りたい、という願い」~映画・地球交響曲(ガイアシンフォニー)より・その③~

『スピリット(霊性)・マインド(知性)・ボディー(肉体)
 の調和こそ、人間本来の姿である。』
 登山家・ラインホルト・メスナー
                      

この人からただただまっすぐに受け取るのは、
「知りたい」という思いである。

何故そうまでして・・・と、昔の私なら疑問でしかなかっただろう。
「死の地帯」で初めて見えるもの。感じられるもの。
ラインホルトが自らの体を通して見たかったものは、
何であっただろうか。

ラインホルト・メスナーは世界で唯1人、
単独で世界の8000メートル峰全山14座を制した人である。
1970年に8000メートル級の山としては初めて、
ナンガ・パルバートという山に登頂するが、
そこで最愛の弟を亡くし、
自分も足の指6本を失っている。
しかしラインホルトは山への挑戦をやめようとはしなかった。

あるとき彼の母親が涙ながらに、
「もう8000メートル級の山に登るのはやめてちょうだい」
と頼んだ。
彼は無邪気そうにこう応えたそうである。
「いいよ。まだ7000メートル級の山がたくさんあるからね」

彼は、まさにそのナンガ・パルバートにおいて、
忘れることのできない体験をしたのである。
下山の途中、彼と弟は800メートルの崖を墜落した。
そのとき、落ちて行く自分を上から静かに見つめている、
もう1人の自分に気がついた。

「目に見えている世界だけがこの世のすべてではない」
「理性や五感だけでは捉えることのできない次元の世界がある」

そのことをラインホルトに確信させる、最初の体験であった。

第8号でラッセル・シュワイカートという宇宙飛行士を紹介したとき、
「肉体という限界を精神がぽんっと飛び越えたとき、
”運命の一瞬”が訪れるのではないか」という話をした。

ラインホルトにとって山に登ること、
それも自らの肉体だけをフルに使って山に登ること、
それは「向こう側の世界」を垣間見る手段だったのではないか。

ラインホルトは言っている。

「私は山を征服したいのではありません。
登れるということを証明したいのでもない。
ただひたすら、私は自分を知りたかったのです。
この有限の肉体を持った裸の私が、
生命の存在を許さぬ死の地帯で、
どこまで命の可能性を広げることができるかを知りたかったのです。
だから、大きな組織や科学技術の助けを借りて山に登ることは、
私にとって意味がなかったのです」

さて、ここでふと「あれ?」と思われなかっただろうか。
私はさきほど、
「彼は「向こう側の世界」を垣間見るために山に登るのだ」と書いた。
ラインホルトは「自分を知りたいから山に登るのだ」と言っている。
このふたつは一見まるで正反対のことに思える。
見ようとする意識は、
かたや限りなく外側に、
かたや限りなく内側に向かっている。

しかしこのふたつが「実は同じことだ」という考えを、
私はあらゆるところで耳にするのである。
例えば人智学者のルドルフ・シュタイナーの言葉を借りればこうである。

『あなたが自己を認識したければ 
世界のなか、あらゆる周囲に目をそそぎなさい
あなたが世界を認識したければ
あなたのなか、自身の深みに目を向けなさい』

再びラインホルトの言葉を聞いてみる。

「私は自分が自然の一部分であるということを
強く感じています。
私と水や木や草との間にはなんの区別もない。
同じひとつの流れの中にあるんです。
私は他人より超人的な体力や耐久力を
持っているというわけではありません。
ただ私は生命力を発揮する方法を
他人よりよく知っていたと思います。
生命力は自分が所有するというものではなく、
私たちの周囲に無限に存在し、
渦巻いているものなんです。
その生命力をスムーズに体の中に取り入れ、
そしてまたスムーズに外に出して行く。
それが調和的にうまくいったとき、
遠征は成功するのです。
するとまた、大きな喜びとともに
エネルギーが体の中に戻ってくる。
人間はいわば、
生命力の通り道のようなものなんです」

私の体は、昨日も今日も明日も、
変わっていないように思える。
私の体は世界のあらゆるものとは別個に存在し、
私の体の中で生きるために行われている循環は、
私の体の中だけの問題のように思えるし、
私の体が昨日生まれても、明日なくなっても、
世界にはなんの影響もないように思える。
しかし、私は、毎日食べて飲んで息をしながら生きている。
生きるために他者を取り込み、
毎日細胞を総とっかえしながら暮らしているのだ。
その証拠に、生まれたときの私と今の私では、
全然まったくカタチが違う。
当たり前のことだけど、すごく不思議なことだ。
当たり前のことだけど、すごく大変なことだ。
それなのに、私は世界と別個のものだろうか。
私と世界は断絶していると言えるだろうか。

自分は大きな流れの一部である。
そのことは、頭で考えていてもわからない。
理性はそれを教えてくれない。
だからラインホルトは訓練して体を研ぎ澄まし、
山に登ったのだ。
そして自らの体が感じるものから自分というものを問うた。
自らの体が、自分は独りではありえないことを教えた。
自らの体が、目には見えない世界を見せた。

肉体は、鈍感に生きている間は、ただの檻であるように思える。
「魂」というものを人間の本質と肯定した場合の、その檻。
肉体の快・不快に人は振りまわされる。
五感による刺激に手一杯だから、
魂を高めようとする余裕がない。
瞑想も座禅も滝に打たれるのも、
飢餓状態になって修行するのも、
できるだけ精神を肉体感覚から乖離させ、
五感から離れることで、
その先にあるものを感じようとするからではないか。

ならばなぜ、私たちは肉体をもって生まれてくるのか。
もし神様という存在があったとして、
神が人間に「五感の先にあるものを感じなさい」と言うのなら、
はじめから肉体など与えなければいい。

しかし、ここで思い出してほしい。
第5号の「リズム」の文章の中で、私は考えた。
宇宙のリズムと私たちの体の中で息づくリズムは、
同じものだと。
ならば、自分の肉体を深く感じることこそ、
宇宙なり、神なりを感じることに繋がるのではないか。
大きな目に見えない流れを感じることに繋がるのではないか。
そうなると、
肉体感覚を離れるべく修行しているように見える聖者たちは、
実は、自らの肉体のより奥底を見つめていたのではないか。

肉体があるせいで、五感以外のものが感じられない。
・・・のかそれとも、
世界と繋がるために、肉体は不可欠なものなのか。
それが問題となってくる。

ここで私の好きなミヒャエル・エンデという作家の作品に
一貫して表れる概念を紹介したい。
それは、

「見えるものは見えないものの輪郭を描くためにあるだけにすぎない」

という考えだ。いくつかの例も挙げられる。

「神殿の内部の寸法は、つまり、
何もない虚無の空間の寸法が、
神の住まいとしてのそれなのです」

「老士はこう言います。
『粘土で器を作る。
しかし、粘土が包む虚無の空間が、
器の本質(有用性)なのだ』
あるいは、
『30の輻が車輪の中心に集まる。
しかし輻の間の虚無の空間が、
車輪の本質(有用性)なのだ』と」

こうして、エンデの作品は、

「語ることは語られないものに注目させる、
ただそれだけの役目を果たせればいい」

という考えのもと、数々生み出された。

この考えは、人間の肉体と世界との関係にも、
もしかしたらあてはまるかもしれない。
肉体とは、それ自体が大切だというよりも、
世界に渦巻く生命力を通すもの、
その流れを感じるもの、
他の生き物たちと繋がり、
命を連鎖するものとして、
大切なのではないか。

私は今まで、厳しい訓練・試練を自分に課して、
山に登る人やマラソンをする人が信じられなかった。
なんで自分の体をそうまで酷使して、それをやりたいの?!
なんで自分から苦しいことをしたがるの?!と。
前述した修行者・聖者たちなど、その最たるものである。
しかし彼らは、体を酷使しているように見えて、
実は自分の体の特性を十二分に生かし、
体を虐めているように見えて、
実はその体から「知りたい」と願うことを知ろうとしていた。

「知りたい」・・・
人間はどうしてこうまでも切に、知りたいと願うのだろうか。
どうして月が欠けるのか知りたい、
どうして世界には朝と夜があるのか知りたい、
どうして鳥は飛べるのか知りたい、
どうして世界には苦しみがあるのか知りたい、
世界とは何なのか、人間とは何なのか、私とは何なのか、
知りたい知りたい知りたい・・・

その願いが、文化や思想をここまで発展させたとも言える。
ラインホルトの中にも、
その願いが抑えがたく存在したからこそ、
弟を失っても、母親が泣いても、山に登り続けたのだろう。

私も「知りたい」から、このような文章を書いている。
しかし今はまだ、何を「知りたい」のかさえ定かではない。
以前、後輩の子がこんなことを言った。

「ボクは怖い、正直なところ。
それを見てしまったら、
『そのまた向こうの何か』の存在を知ってしまったら。
自分が自分でなくなっちゃう?
それで。
「目で見たものしか信じない」って強がっているのかなぁ?」

それに対して、私はこう言っている。

「何か、自分の基盤を揺るがすような、
新しい価値観を受け入れるのって、
すごく怖いし、心が拒否反応を起こすよね。
だけど、私が望む形は、
新しい価値観を受け入れてなお「自分」でいること。
塗り替えられるんじゃなくて、
それまでの色に新しい色を、ぼんやりにじます。
それもまた自分の一部にする、っていうか。
ガラッと大切なものが変わってしまうのではなく、
それを知ることで、ほんの少し幸福な気持ちに近づく。
知りたいのは、今いる場所がもっと好きになるような、
そういう「向こう側」です。
怖くないところです」

「知りたい」ものさえ、定かではない。
でも「知りたい」ことがどんなことなのかは、
おぼろげに分かっている気がする。
いろんな人の話を聞き、
いろんな人の生き方に触れると、
頭はこう考える。

「探しているものを、
私はすでに持っているのかもしれない。
探しているものは、
常に私の中にあるのかもしれない」

でも、私はそれに気づけない。
このままでは、一生気づけないだろう。
ここに紹介するような人々に憧れるのはそのためだ。
「動く」人々に憧れるのはそのためだ。
彼らは動き、
体験し、
会い、
自ら傷つき、
自ら感じる勇気と行動力がある。
そうして、自分の答えを模索している。

私もそうしたい。
私も感じたい。
そして伝えたい。
私はどこまで行けるのだろう。
私はどこまで生けるのだろうか。


=====DEAR読者のみなさま=====


前回の第10号でも、今回の第11号でも、
「体」というものにちらほらと焦点が当たっています。
知りたいことを教えてくれるキーワードのひとつは、
「体」なのかもしれません。
体のことって、自分が一番よく知っているようでいて、
実はまったく分かっていないことのような気がします。

次回は、さらに身近な「食べる」ということを通して、
人々と温かで厳しい交流を持たれている、
佐藤初女さんという方をとりあげたいと思っています。

佐藤初女さんの生き方に触れると、
普段何気なく行っている「食べる」ということ、
そして「体」ということについて、
目からうろこが落ちるような気持ちになります。
しかもそれは、先ほども書いたように、
ガラリと世界が変わってしまううろこの落ち方ではなく、
それを知ることでほんの少し穏やかで幸福な気持ちになる、
そんなうろこの落ち方なのです。

本文の最後で、私自身の「焦り」のようなものを書きましたが、
ラインホルトは

「スピリット・マインド・ボディーという、
人間の成り立たせるこの3つの要素の調和が、
人間の理想的な姿だと私は思います。
もし肉体を疎かにすると、
スピリットやマインドがいかに高くても、
人間はその肉体の弱さにとらわれてしまう。
人間は自分が持っている一番弱い要素を基準に
生きざるを得ないのです」

と言っています。
確かに、このメルマガは、
私の中のスピリットが書かせているような気がしますが、
風邪をひいて吐き気がするだけで、
自分が書いていることなどどうでもいいような気がしてくるし、
家族と喧嘩をしただの、
仕事でミスをしただの、
日常の末節な悩みに理性や知性がとらわれても、
ここに書いているようなことは吹っ飛んでしまいます。
そのたびに自分のちっぽけさを感じます。

けれど第8号の最後で紹介した、

「普通の人たちの、
普通の生活の中での心の変革が、
実は一番大切なんだ」

という言葉は、
ラインホルトが言ったものだったのです。
特別にすごいことなんてしなくていい、
1人1人の心の中の革命こそ、今一番大切だと。

佐藤初女さんは、誰でもしている「食べる」ことを通して、
人々の心に温かな革命を起こしています。
自分の得意なこと、自分にできることを、
精一杯していけばいいのかな。
そんな気持ちにさせてくれるおばあちゃんです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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