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人間が生きることを肯定したい・32「ぼくもういかなきゃなんない」

『ぼくもういかなきゃなんない

 すぐいかなきゃなんない

 どこへいくのかわからないけど

 さくらなみきのしたをとおって

 おおどおりをしんごうでわたって

 いつもながめてるやまをめじるしに

 ひとりでいかなきゃなんない

 どうしてなのかしらないけど

 おかあさんごめんなさい

 おとうさんにやさしくしてあげて

 ぼくすききらいいわずになんでもたべる

 ほんもいまよりたくさんよむとおもう

 よるになったらほしをみる

 ひるはいろいろなひととはなしをする

 そしてきっといちばんすきなものをみつける

 みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる

 だからとおくにいてもさみしくないよ

 ぼくもういかなきゃなんない』

谷川俊太郎詩集「はだか」より


2003年秋、東京国際フォーラムで
『智慧の実を食べよう 300歳で300分』というイベントが行われた。

糸井重里さんの企画である。
詫摩武俊、吉本隆明、藤田元司、小野田寛郎、谷川俊太郎、
各界の長老たちの話をただただ聴く、というこのイベント、
私が知ったときにはチケットはとっくに完売。
仕方がないので、当日の記録をもとに編集された本を買って読んだ。
読んでますますその場にいられなかったことが悔しくなるような、そんな内容だった。

さて、冒頭の詩は谷川俊太郎さんの「さようなら」という詩だ。
谷川さんが講演後、
鳴り止まぬ拍手に応えて再登場した際、
会場へのお別れのために読んだものだ。

私はこの詩を、会社帰りの電車の中で読んだ。
読んだとたん激しく胸をつかれ、
なぜだか涙が溢れてきて、こらえるのが大変だった。

電車から降りてホームを歩きながら、
なぜこの詩がそんなに心を震わすのか考えた。

浮かんでくるのは、幼い男の子の後ろ姿。
リュックを背負っている。
ふくふくした両手でリュックのベルトをしっかりにぎりしめている。
遠くに見えるのは、山と、山にかかる大きな月。
誰もいない町の中を、たんたんとひとり歩いている。
夜明け前の静けさの中、ひんやりした空気は清々しい。
行く手は微かに明るい。

私がとっさに思い浮かべた勝手なイメージである。

まず感じたのは、「幼い男の子の一人称」で表現される、むきだしの魂である。
純粋で、透明な魂。

まだやわらかい心に悲壮な決意をしっかりと抱えて、
何が起きるかわからない、誰がいるのかもわからない世界へと踏み出していく。

今頑張って生きている人の多くが、
人生の中のある時期、
そうやって世界と向き合ったのだろう。
おそれにおののきながら。
期待に震えながら。

そのいじましさと強さを思い、私は胸をつかれた。

また、世界と向き合うには、
大切なものと決別しなくてはいけないことがある。

「おかあさんごめんなさい」
「おとうさんにやさしくしてあげて」
何よりも大切なものを置いてでも、男の子は出て行く。

それは「いちばんすきなものをみつける」ためなのだ。

これは、自分がひとつの「光」なのだと悟らなくてはできないことだ。

人は誰でも、孤高の魂を持つ。
産まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、
孤独なひとつの光である。
誰に照らされなくても輝く。
光そのものである。

そのことを信じなくては、
「いちばんすきなもの」は見つからない。
「いちばんすきなもの」は、その光で照らさなくては見えないからだ。
「いちばんすきなもの」を見つけたとき、その光は最大限に輝く。

一番好きなものを見つけて大切にして死ぬまで生きる。
そのために自分は産まれて来たのだと、男の子は確信している。
だから、行くのだ。

涙が出た理由は、それだけではない。
男の子の背後に、確かな愛情の存在を感じたのだ。
これは「さようなら」という詩で、
思い浮かぶのは切なく孤独な風景なのに、
その背後にはしっかりとした愛情の砦を感じる。

人は確かに誰に照らされなくても輝くひとつの光だ。
けれども、そのことに気づくまでには、他人の光が必要だ。
絶対に必要だ。
「おかあさん」や「おとうさん」の光が。
産まれたその子の光が自ら輝きだすまで
根気良く照らしつづけてくれる、誰かの光が必要だ。

男の子が世界に踏み出せるその日まで、
「おかあさん」と「おとうさん」は男の子を照らしつづける。
自分たちから離れても大丈夫になるまで、照らしつづける。
「人の心」がきちんと育つまで。

私は常々思うのだ。
ひとりの人間として、
他人との関係性にではなく、
自分の内側にこそ生きる価値を確信できなければ、
他人と本当の関係を築くことはできない、と。

本当の関係性は、
孤高の魂が光る者どうしに結ばれる。

自分はひとつの光なのだと知ったとき、
他人もまた、それぞれに、孤高の光なのだと知る。

だから笑顔を向けられる。
優しい声で話しかけられる。
好きになれる。
つながりたいと思う。
愛しいと思う。
尊重すべきだと思う。
なくしてはいけないものだと思う。
本当の人間関係を築けるのは、そこからだ。

もし自分が子どもを持ったとき、
あなたは光なのだと、
教えてあげられるだろうか。

孤高の光だからこそ、
決して独りではありえないのだと。

ちゃんと、体で、心で、生活で、態度で、教えてあげられるだろうか。
それは、自分自身もまた光だと信じていなくてはできないこと。
自分の光を知らずして、子どもを持てるか。

最近、貴志祐介という作家の「硝子のハンマー」という小説を読んだ。
その中に、次のような指摘があって、深くうなずかされた。


『若者というのは、いつの時代でも、どうしようもない矛盾の塊よ。
社会を変革できるほど爆発的なエネルギーを持っているのに、
ひどく傷つきやすくて、大人なら耐えられるくらいの、
ちょっとしたことで壊れてしまう。
・・・まるで、ガラス細工の凶器みたいに』

『そうかもしれません。しかし、問題は、
ガラスのハンマーであっても、人は撲殺できることです』
(中略)

『その通りよ。だからこそ、復讐ではなく、再教育が必要なんです。
(中略)
・・・ガラス製のハンマーが、本当に危険な凶器になるのは、
砕けてしまった後なんです』


子どもの心がこなごなに砕けてしまったら、
いったい何が起きるか。
私たち大人はニュースで知り、
その度に愕然と立ち尽くすのみだ。

いつか子どもを持てたら、
そのときは自分の光で子どもを照らしてあげたい。

私自身が産まれてから今の今まで、
絶えることなく照らされつづけている光を。

子どもに輝いてほしいと思ったら、
自分自身が強く強く強く輝き続けるしか方法はない。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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