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河合隼雄を学ぶ・6「母性社会日本の病理①」

この本は私が生まれた年、1976年に刊行されたものだが、内容が古びていない。現代社会の病理に繋がる問題提起がなされていて、改めて、河合隼雄の先見の明、時代を見通す感覚に驚かされる。

河合隼雄は生涯を通じて、日本とは、日本人とは、ということを考察し続けた。この本は、日本を考察した数々の著作の中のひとつである。

私は、河合隼雄が、日本をどう見ていたか、そして、この世界における日本の「位置づけ」についてどう考えていたかに、とても興味がある。日本人ならではの特性が、未来において、「人類はどうあるのがよろしいか」という大きな課題のヒントになると、河合隼雄は考えていたように思う。

【第一章:日本人の精神病理】

母性の本質を、ユングは「慈しみ育てること」「狂宴的な情動性」「暗黒の深さ」だと述べた。肯定的側面としては、平等に我が子を愛し、育てるが、否定的側面としては、すべてを包含し、飲み込もうとする。

一方、父性原理は「切断する」機能を持つ。子どもをその能力や個性によって類別し、評価する。

母性は「我が子はすべて良い子」であり、父性は「良い子だけが我が子」であると、河合隼雄は表現している。

さて、日本は「母性社会」である。母性原理に基づくと、母の膝のもと「絶対的平等」に価値がおかれ、「場の平衡状態の維持」に最も高い倫理性が与えられる。いわば「場の倫理」である。

日本においては、「場」の中にいる限り、善悪を超えてでも守ってもらえるが、「場」の外は赤の他人、どうなろうが知らぬ、という側面がある。排他的であり、「場」の外の人間には冷淡な側面がある。

家における父親(一昔前の・・・かもしれないが)、会社における経営者や管理職は、「場全体に平衡状態の維持」に責任があるため、個が犠牲にされる決定がしばしばなされる。決定を下す本人の個としての欲求も、「場」の維持のために抑えられている。

一方、欧米では父性原理に基づく「個の倫理」が優勢であり、個の欲求の充足、個の成長に高い価値が与えられる。

欧米では、ウロボロス的な未分化な円環的世界・根源的無意識から、自我が分離し、確立しようとするとき、世界はグレートマザーの姿をとり、個の自我を飲み込もうとする。その飲み込もうする力を切断し、意識を無意識から切り離すことが、自我の確立の第一歩である(母親殺し)。さらにそれまでの一般的な規範や概念と戦い、そこから自由になろうとする(父親殺し)。最後に自立した個が女性と結合して、新しい世界と関係を結ぶという過程が、いわゆる「英雄神話」なのである。

ところが、「母親殺し」ができない日本人はどうなるか。

ここでユング派の「永遠の少年」という元型が紹介される。「永遠の少年」は成人することなく死に、グレートマザーの子宮の中で再生し、また少年として生まれてくる。

母性的な絶対的平等を基礎として、「永遠の少年」の上昇志向が加わるとき、日本人は個の能力差を無視し、無限の可能性を信じて、みんなで上に上がろうとする。この集団的圧力、集団としての圧倒的な力は、戦時中や戦後の復興時に顕著だったように思う。

また、日本の若者たちが自我を確立せんと、父性を探しても、出会うのは母性ばかり。さらに、「母親殺し」を体験するイニシエーションの機会もない。そのために、若者が真の意味での成人へと脱皮できず、右往左往したあげく、グレートマザーの生贄になっているのではないか。そう河合隼雄は警鐘を鳴らしている。

ただし、河合隼雄の論はここで終わらない。日本人に「母親殺し」と「父親殺し」の必要性を強調して終わるのは簡単だが、そうはならない。

なぜなら、父性原理が非常に強く、母性原理を切り離し、自我の確立を追求し続けたアメリカは、あまりにも母性的なものから切り離されすぎて、やはり問題を抱えているからだ。

日本人の自我は、父性と母性の両原理の上にバランス良く構築されている。見方によっては、柔軟性の高い、バランスのとれた構造をしているという。両原理のバランスをとっているものは何なのか。

日本人は、確かにもう少し、父性原理の確立に努力すべきであるが、それは単純に西洋の真似をせよ、ということではない。父性原理を確立しつつ、母性との関わりを失わない。そういった「第三の道」を開いていけるのではないかと、河合隼雄はそういう期待を日本人に持っていた。

そのために、日本の神話が持つユニークな構造に興味を持ち、そこにヒントがあるのではないかと考えたようだ。

(次回に続きます)


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