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人間が生きることを肯定したい・24「明かき心①」

『あらゆる時代を支配している、
その時代特有の無意識の価値観、
それを神話と呼ぶ』

「アニミズムという希望
講演録・琉球大学の五日間」
山尾三省著 野草社より

最近とみに、日本人であることに誇りを覚えるようになった。
機会あって古事記や日本書紀にふれ、
各地の神社を訪ね、
日本の神道というものを意識するようになってからである。

人間はそもそも、
「明かき、清き、直き、正しき心」を持っている。
古代の日本人はそう考えていた。
私たちの魂、存在は神と分け合ったものであると。
徹底的にネアカな民族だったのだ。

「八百万の神々」という考え方は、
森羅万象、目の前に立ち現れる全てを神として敬うという考え方で、
森羅万象の中には当然自分たち人間も含まれる。

自分たちを取り囲む全てのものは神で、
自分たちもまた神である。
神と仲たがいしない生活を守り、
神と遊ぶ。

「あな天晴れ! 
あな面明白! 
あなたのし! 
あな清明(さやけ)!
おけ! アッハッハ アッハッハ」

と笑うことで、暗なる気を吐き出し、元気を取り入れていた。
仏教が伝来し「地獄」という概念が伝播するまでは、
死の世界さえ、別れた人に会える光り輝く場所だった。 
そういう神話の中、私たちの祖先は生きていたのである。

「NOと言えない日本人」なんて一時期盛んに言われた。
都合の悪い回答は適当にごまかす、
最終結論を先延ばしにする、
自分ひとりでは判断できない、
関係性に縛られて合理的な決断ができない、
重要なことほど腹に収めておく・・・等々、
否定的な意味合いで使われていたように思う。
しかし、そういった日本人の特質は、
そもそもは美徳であったのではないか。

神の「分け御魂(みたま)」である人間は、
そもそも清明で正直であるはずだから他人を疑う必要がなかったし、
いちいち口で自分の正しさを主張しなくても互いに心の奥底が通じている、
そんなあり方が日本人の美徳だった。

日本人の曖昧さが批判されるたび、
「声高に主張しない者の意見は聞く必要がないのか、
いちいち目に見える契約をしないと約束が守れないのか
なんもかんも合理的でなくてはいけないのか」
と、私は時々言いたくなる。

葉の影に隠れて慎ましやかに咲く山茶花を愛でる心、
散り行く桜を惜しむ心、
掃き清められた庭を飽かず眺める心、
小さいもの、
微かなもの、
けなげなもの、
ささやかなもの・・・
静寂の中で今にも消えゆかんとする美というものを敏感に捕らえ、
愛でる心を持っていることもまた、
日本人の美徳であったように思う。

目に見えぬもの、
言葉にできぬもの、
曖昧なもの、
割り切れぬもの・・・
この世界にはそういうものも沢山あるはずだ。
日本人は生来、そういったものを豊かな感受性で認識していた。
信じていた。
茫漠としたこの世界をそのままに受け止め、
敬ってきたのである。

どちらが正義でどちらが悪か、
どちらが味方でどちらが敵か、
どちらが美でどちらが醜か、
どちらが得でどちらが損か、
どちらが成功でどちらが失敗か、
どちらを取ってどちらを捨てるか、
生なのか死なのか、
そういうことではないのだ。
すべてはバランスなのだ。
混在なのだ。
どちらでもあるのだ。
難しいのだ。
分かりっこないのだ。

「分からないこと」への飽くなき探求が、
人間の文明をここまで押し進めてきた。
私もその恩恵に与る現代人のひとりである。
それはそれで素晴らしい。

しかし「分からないこと」への畏怖の念を忘れ去っては、
人間はおしまいだと思う。

「分からない」という言葉は、
「分けられない」から来ている。
物事を分けて分けて細かく分けて、
徹底的に分析していくことが正に科学のやり方であるが、
「分ける」という言葉は「罪」が語源なのである。

人間はこれまで、快適な生活のために、
自然と自分たちを分け、
動物と自分たちを分け、
他人と自分を分け、
現象を分け続けてきた。

だからこそ、
今ここで「分けられない」=「分からない」ことへの
畏敬の念を取り戻さねばならない時に来ていると思う。
切実にそう思う。

この世界のリズム、
「循環」といっても良いし、
「バランス」といっても良いのだが、
それを理屈ではない全感受性でバーンッと受け止め、
「分からない」ということが「分かった」とき、
人は「ありがたい」という感情で満たされるのである。
今自分がここに生きていることへの感謝で満たされるのである。
生命がある奇跡を思う。
少なくとも、積極的に殺し合おうとは考えない。

日本人はずっと、
「分からない」ことの全てを「神」として親しんできたのである。


=====DEAR読者のみなさま=====


冒頭の言葉の他にも、
山尾三省さんはこんなふうに言っています。

『神話の本質は何かといったら、
一人一人の願いの集積にほかなりません』

戦後の日本において、
一人一人の願いというのは、
やっぱり経済の発展、
科学の進歩だったと思います。
だから、現代の社会を支配しているのは、
「経済」という神話、
そして「科学の進歩」という神話だと山尾さんは言います。

しかし、このふたつの神話が、
いつまでも活き活きと神話としての光を持っていられるかということを、
今一度立ち止って問わなくてはならないと山尾さんは言うのです。

では今、私たち一人一人が心から願っていることはなんでしょう。

『一人一人の願いをはっきりさせてほしい。
皆さんが現在持っておられる情報や知識のすべてを尽くして、
その上に立って、
人類として、
その中の個人として
何を心から願うのかということを、
よくよく考えていただきたいのです』

これが山尾さんのお願いです。

産まれながらにして「明かき心」を持っていた私たち日本人。
日本人の心の原風景である日本神話を、
もう一度世界の人々に伝えていったらどうなるでしょう。

人々の無意識の総体が、
今ここで生きて流れるものへの感謝で満たされたら
どういうことになるでしょう。

私はそれに期待したい。そう思います。

さて、
「神話」ということからさらに話を広げまして、
第25号に続きます。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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