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【ショートエッセイ】百年後(2008)

百年後

17年前に旅立ったコルカタの義父が、結婚当初心を込めて贈ってくれた一冊の本がある。ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)の詩集『ギタンジャリ』(1909)である。

それまで詩と殆ど無縁だった私の、詩との真の出会いであった。

一読するなりその素晴らしさに呆然とするほど感銘を受けた。敬虔でありながら恐れることなく結ばれた神との直接的な関係とそこから溢れる純粋な命の歓喜と愛が、郷愁に似た強い思いへ私を駆り立てた。その精神世界は大きな憧れとなった。だが当時の私には、タゴールだからこそ至り得た特別な境地であるようにも感じた。

しかしその後、タゴールの初期詩集『チトラ』(1896)に所収されている「千四百年」という作品を読み、一変した。彼は「今日から百年後/好奇心に胸を躍らせながら/私の詩を座って読んでいるあなたは誰でしょう/...*」と親しみを込めて呼びかけ、早春の朝の至福の喜びが「.../あなたの春の日に/あなたの心のときめきの中で/.../...しばし共鳴しますように/今日から百年後*」と願っている。

私は魂が地殻変動を起こしたような衝撃を覚えた。崇高な存在であるタゴールがその熱情を私に伝えたいと切望している。違う時代に生きた大詩人がその瞬間、確かに私の傍で愛しく語りかけていた。涙が零れた。彼の詩が私自身さえ知らない私の詩となった。その時私は、古ウパ二シャッドの基本思想である梵我一如の幾許かを初めて、理論ではなく直観したような気がした。宇宙の根源であるブラフマンと、人体に内在し意識の最も深い内側に在る個の根源、アートマンは同一であるという思想である。始まりも終わりもなく物質的宇宙の背後にもとから存在する命の源と個々の自我が同一であるなら、私達全ての魂は生まれも死にもせず、時空を超越し、ずっとひとつに繋がっていることになる。

同じ時代に生を共にし愛に満ちた偉大な詩人、敬愛する先生が逝去なさった。温かい笑顔、凛としたお姿、独特の文字、受話器に響くお声...何もかも恋しくて堪らない。だが、先生はいつまでも力強く生きていてくださる。常に優しく励まし続けてくださる。素晴らしいお作品と共に。今も、百年後も、永遠に。


*出典 「タゴール詩集」(世界の詩39 山室静訳)
**本稿は2008年に執筆したものに加筆/修正を加えた作品です。

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