【ショートストーリー】昭和の傘しべ長者
昭和の傘しべ長者
「ちぇっ。10円足りないやー!」
桜が咲き始めて間もない土曜日の午後、まだ少し肌寒い曇り空の下、都心の住宅街を貫く私鉄の小さな駅で、高校2年生になったばかりの香織の隣の券売機で切符を買おうとしていた背のひょろ高い青年が叫んだ。
と言っても、恐らく本人は小さくぼやいたぐらいにしか思っていないだろう。なにしろ彼は、1メートルもそばに寄れば何を聞いているかはっきり分かるほどボリュームを上げて、ウォークマンで音楽を聞いているのだ。
その時、ホームに電車が入ってきた。
香織はすぐに改札を通ろうとしたが、その青年のひどい慌てぶりが目に入ってきた。
彼は、急いで財布から千円札を出して券売機に入れようとしたが、勢い余って右手を券売機に思いきり強くぶつけた上、その拍子に持っていたウォークマンを落とし、それに繋がっていたイヤホンが耳から外れ、せわしなくそれらを拾おうとして、横にたてかけておいた傘まで倒しながら蹴とばしてしまったのだ。
香織は駆け寄り、「あと10円ですね?」と尋ねた。
「え?」と、一瞬その青年は戸惑ったが、「そう、あと10円!」と答えた。香織は素早く10円を券売機に足して切符を買うと、落としたものを拾っている青年に渡し、「さあ、早く!」と青年を引っ張りながら階段を駆け上がり電車に飛び乗った。
間一髪だった......。
2人は、電車の中で暫く荒い呼吸を整えていたが、やがて顔を見合わせて微笑んだ。
「どうもありがとう。僕、すごく急いでたんだ」
青年は、無邪気に顔をほころばせながら嬉しそうにお礼を言った。品の良いセーターとジーンズのせいか、ぱっと見ただけではもう少し年上に思えたが、実際は恐らく香織と同い年ぐらいだろう。
「ふふふ、急いでいるの、すぐに分かった……」
香織は、大きな身体で少しはにかむように話す青年の仕草をかわいいと感じながら、青年の顔を見上げていた。
「この電車に乗れなかったら、たいへんなことになるところだった。次は15分後だからね......。本当にどうもありがとう。小銭がないからここでは返せないけど......」
「いいのよ、受け取っておいて」
香織は優しく笑った。
しかし彼は、「お礼、と言ってはなんだけど......」と言いながら、自分の持ち物を頭の中で全てチェックするように視線をさまよわせると、何か思いついたようにハッと目を上げ、「これ、もらってくれる?雨が降りそうだから......」と持っていたビニール傘を香織に差し出した。
「本当にいいのよ。そんなこと......」
お礼なんかいらない。それより、ちょっぴり夢のある思いをとっておいた方がずっといい。
例えば、なんとなく良いことが起こりそうな予感......。あるいは、誰かに少し言い過ぎてしまったことを、これで許してもらえるような気分......。
だが、外をよく見てみると、午後の1時過ぎにしては薄暗く、なるほど今にも雨が降り出しそうな気配が空全体に漂っていた。
「たかが10円、されど10円、だろ?ボクの気が済まない!」
香織は、その青年の真剣なまなざしを暫く見ていたが、やがて軽くうなずくと、「じゃあ、遠慮なくもらっておくね。ありがとう」と、その傘を受け取った。
電車が次の駅のホームに入っていく。
「良かった。これで恩が返せた気になれるよ。もっともそれ、駅前の本屋でちょっともらってきたヤツだけどね......」
そう言ってウィンクをすると、その青年は弾むような足取りで電車を降りて行った。
香織は一瞬あっけにとられ、そのあとすぐに慌てて何か言おうとしたが、電車のドアが閉まり、静かに走り出してしまった。
まあ、なんて子なの!盗んだ傘を嬉しそうな顔でお礼にくれるなんて!
香織はしばらくその傘を持て余していたが、やがてポツポツと外を降り出した雨を見て小さくため息を吐くと、「しょうがないな......私が後で返しておこう」と呟いた。
いくらバイト代が出たばかりだと言っても、少し買いすぎかな?
香織は、両手いっぱいに持ったブティックやデパートの袋を見ながら、渋谷駅の長い階段を降りていた。
雨が降っているにもかかわらず、土曜日の夕方の渋谷は、相変わらずかなりの人で溢れていた。
シフォンの春物で淡いピンクの花柄のワンピースを1着と、それに合わせたべージュのパンプス。前から欲しいと思っていたが、少し高いので買うのをためらっていた、襟の大きなシルクの白いブラウスは、なんと4割引きで手に入れた。それから、着回しのきく短めの黒いタイトスカート......。
買い過ぎとは思っても、それらを上手に着こなした自分を想像すると、香織は自然と顔がほころんできてしまうのだった。
それに、お店をたくさん見て回り、満足のいく戦利品を得た今、香織の心の中は充実感でいっぱいになっていた。
その時だった。
突然、後ろから何かがドンと香織にぶつかってきた。その勢いで、香織はよろけて階段から落ちそうになり、夢中で手すりに摑まってしゃがみ込んだ。
香織の荷物は、何人かの人達にぶつかりながら見事に階段の下まで転げ落ち、例のビニール傘は、誰かに踏まれてしまったのか、先の方が折れ曲がって階段の途中に引っかかっていた。
いったい、何なの?!
香織が顔をしかめて立ち上がると、スマートにスーツを着こなした中年の男性が、「すみません。大丈夫ですか?」と早口に言いながら香織の顔を覗き込んできた。
幸い痛いところはなく怪我もなさそうなので良かったけれど、危ないじゃないの!
香織は内心結構ムッとしていたが、その男性が心配そうに謝っているのを見て、無理に愛想笑いを浮かべると、「ええ」とだけ答えた。
するとその男性は「ふうっ〜」と息を吐きながら安心したような表情を浮かべた後しばらくの間......と言っても正確には2〜3秒ぐらいのことだったと思うが......香織と荷物と傘を代わる代わる見ていた。
香織は当然ながら全部荷物を拾ってきちんと手渡してもらえるとばかり思いながら立ち上がった。だが、その男性はホームに電車が入ってくるのが分かると、「本当にすみません、急いでいるものですから。お詫びにこれ......」と、またひどく早口に言い、男性の持っていた傘を香織の手に有無を言わせぬ勢いで握らせると、途中に落ちていた先の曲がった例のビニール傘をサッと拾い、大急ぎで電車に飛び乗って行ってしまった。
「あっ、その傘......」
香織は、周りの人々の無関心を装った好奇心一杯の視線の中、ゆっくりと階段を降りて荷物を拾いながら、「あ〜あ、どうして皆そんなに急いでいるんだろう。次の電車に乗ったってたいして変わりはないと思うんだけど......」とうんざりした顔でぶつぶつ愚痴った。
しかし、手にしていた傘をじっと見て、香織の機嫌は突然良くなった。
それは、香織が雑誌を通して憧れていたルイ・ヴィトンの焦げ茶色モノグラムの長傘だった。
香織が自宅の最寄り駅に着く頃になると、雨は激しく降り出していた。
大荷物を抱え、暗くなった夜道を強い雨に降られて歩きながらも、香織は晴れ晴れした気分だった。
しかし、さすがに少々疲れたようである。なにしろ、駅前にある星川堂のバスクチーズケーキが食べたいと思いつつ、買うのが面倒になって素通りしてしまったのだから......。
やれやれ、もうすぐ家に着く……。
思わず少し歩調を速めながら歩いて行くと、香織の家の前に人影が見えた。
香織は警戒しながら近付いた。
すると、鮮やかなオレンジ色のフォーマルドレスの肩を少しだけ濡らした20代半ばぐらいの女性が、香織の家の軒下で雨を避けながら不安そうに空を見上げていた。
香織は少しためらったが声をかけてみた。
「どうなさったんですか?」
その女性は、はっとしたように香織を見たが、「雨がひどいですね......」と独り言のように言ったきり、早く止んで欲しいと訴えかけるように、また暗い空に視線を戻した。
「あの......よろしかったら、この傘お貸ししましょうか?」
香織は思わずそう言ってしまってから、返ってくることが確信できないことに後悔したが、それでも気分の良さに押されてその傘を差し出した。
その女性は、急に天からの助けでも得たように嬉しそうな顔になると、「それは有難いです」と香織の方に身体を向けた。
「実は今日、友人の結婚式があったのですが、急に親の関係で家にお客様がいらっしゃることになり、できるだけ早く帰らなければならないのです。このドレスでびしょ濡れになるわけにもいきませんし......。駅から家に電話をして誰かに迎えに来てもらえば良かったのですが、私が駅に着いた時にはこんなに降ってはいなかったんです。途方に暮れていたところでした......」。
その女性は「必ずお返しに伺いますから」と、香織から傘を受け取った。
「いいんです、その傘差し上げます」
ちょっともったいないけど、なんたってその傘は10円のお礼に盗んだビニール傘をもらって、その先が曲がったお詫びに取り替えてもらったものなんだもの......。駅前の本屋さんには別の傘を持って返しに行こう。
「とんでもない、こんな高価そうな傘を......。私はここから5分位のところに住んでいますから。あなたのお宅はこちらですか?」
「ええ......」
香織は見ず知らずの人に自分の家を教えることに少し躊躇を感じたので語尾を濁したが、感じの良い女性だったし、熱心に聞いてくるので答えることにした。
「ついでの時に......ほら、あそこにある郵便受けのところにでも掛けておいて下されば父か兄が気付くと思いますので......」と念のため男性同居者の存在を強調しながら付け足した。
「そうですか、本当に恩に着ます」
そう言うとその女性は相変わらず激しく降り続いている雨の中を、例の傘を差して軽やかに帰って行った。
香織が部屋に戻って1時間位してからだろうか、玄関のチャイムが鳴った。
少しして母が香織を呼ぶ声がした。
クローゼットの前に買ってきたばかりの服を掛けて満足げに眺め、明日のデートに何を着て行こうかと一生懸命考えていた香織は、ひどく邪魔をされたような気がして唇を尖らせた。
「だれえ?」
香織が鬱陶しさを滲ませた声で母に尋ねると、
「さっき傘を借りた方ですって」という少し気取った母の声がした。
玄関に出て行くと、確かにさっきの女性が立っていて、香織に深々と頭を下げた。
「先ほどは本当にありがとうございました。傘をお返しに参りました。それと、これはささやかなお礼なのですが......」
その女性は、傘と手に持っていた箱を香織に渡した。
「まあ、こんなことをしていただかなくても良かったのに......」
香織は母に負けず劣らず気取った声でそう言うと、恐縮しながらそれらを受け取った。
女性は再度軽く頭を下げながら温かく微笑むと静かに帰って行った。
香織は、傘が返ってきたことと感謝されたことに心から嬉しさを感じながら貰った箱を見てみると、なんと星川堂の包み紙が掛かっていた!
も・し・か・し・て......
ダイニングテ-ブルに座って箱を開けると、期待通り大好物のバスクチーズケーキが6つも入っていた。
香織は、叫び出したいくらいの喜びを嚙み締めながら母親と一緒に紅茶の準備をすると、事のてん末を話しながら二人でチーズケーキを頬張った。
駅前の本屋さんにはどの傘を返したらいいんだろう......。このルイ・ヴィトンの傘か、家にある普通のビニール傘か、それとも新しいビニール傘を買って持って行くか......。
なかなか結論を出すのは難しかったので駅前の本屋さんに相談することにした。
「あ~おいしい~」
香織の溜息と感嘆の声は切ないほどだ。
しかし、半分食べた辺りで香織はふと手を止めると、ちょっと真剣な眼差しになった。
「これ、全部食べたら太っちゃう......」
だが、直ぐに目を上げると勝ち誇ったように顎を上げて数回瞬きをした。
「そうだ!本屋さんに傘を返しに行くついでに、隣のお姉さんに2つ持って行ってあげよう。いつも親切にしてくれるし、ここのバスクチーズーキが大好きだって言ってたもの!今、お家にいるかな......」
香織はそう呟くと、それはもうとろけてしまいそうな顔で、また一口チーズケーキを頬張った。
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