見出し画像

9・11から19年 - 女神が見つめるアメリカ

米国同時多発テロ(9・11)の3年後の夏から私はニューヨーカーになった。JFK空港に向かうフライトからマンハッタンを見た時『魔女の宅急便』のKikiがほうきに乗って『私この街に決めたわ!』と言うシーンの様だった。

画像1

NYCに足を踏み入れた瞬間からこの街が発する特別なエネルギーが好きになった。不安も悲しみも喜びもみんな呑み込んでくれる、世界が凝縮された様なこの街は私にとって居心地が良かった。

NYに越してすぐに見に行ったグランドゼロは巨大なコンクリートの穴だった。そしてすぐそこに浮かぶ自由の女神は小さく見えた。        

2001年9月11日の朝、私はSalt Lake City, Utahにあるユタ州立大学のキャンパス内に居た。日本の大学卒業後、現在の夫と一緒にユタ州に来ていた。まだ渡米して数ヶ月の時だった。朝一のクラスの前に寄らなければいけない用事があり、早足でキャンパスを歩いていると大きな人だかりが出来ているのが遠くに見えた。集まっている学生たちの顔には悲壮感が漂っている。口に手を当てていたり”Oh, my God!!”と嘆いている声も聞こえて来た。

皆が釘付けになっている壁かけのTVモニターに目をやると、ツインタワーからボーボーと炎と煙が出ている映像が目に飛び込んできた。その時ツインタワーはすでにツインではなく一つになっていた。最新映画のCG映像かと一瞬思ったが、真っ赤なBREAKING NEWS!の文字とリポーター達の表情からも何かかなり深刻な事件だ、ということは明らかだった。間も無く2棟目も崩れ落ち、アメリカ全体が悲鳴をあげた。

この直後からアメリカ全体が恐怖と怒りの炎に呑み込まれ、ツインタワー跡地はグラウンドゼロと言う新しい名前になった。

19年前のアメリカは現在のアメリカとは大分様子が違う。GDPはダントツで1位(そのころはは中国の影はなく、日本がGDP世界No2だった)、政治でも文化でも世界のリーダー的存在で、アメリカのする事は正しく、誰しもがアメリカに憧れていると米国民のほとんどが自負していた時代だ。なので、この国の強さの象徴でもある自由の街New York Cityの入り口に聳え立つWorld Trade Centerの2棟両方が自国の旅客機により突っ込まれ、嘘の様に粉々になって消えていくあの2時間弱の出来事は国民のトラウマとなった。

そしてその怒りはグラウンドゼロから遠く離れたユタ州の大学でも顕著に見られ、中東出身の留学生にその矢先は向けられていた。ムスリムの学生に石を投げたり、テロリスト扱いするニュースが日々絶えなかった。

週が明け、当時取っていたアメリカ史のクラスへ行き席についた。先生はブロンドの50代後半女性。先週の大事件についてどんな事を話すのだろう、と授業が始まるのを待っていた。普段はクラスが始まるまでガヤついているのだが、皆下を向き誰一人として話している者はいなかった。

授業が始まってすぐにUAE(アラブ首長国連邦)出身の生徒が、急いで走って来たのだろう、バックパックを前に抱えて、息を切らしながら教室に入ってきた。すると先生が『あなた、爆弾でも抱えてるの?』と皮肉っぽく言ったのにクラス中が凍りついた。そしてその後の授業の中で彼女はことある毎にアメリカ自慢と他の国、特にアラブ圏・イスラム圏の国々を卑下するコメントをする様になった。怒りで自分を制御することができなくなっている様だった。

大学でアメリカ史を教える立場の人間が、学生を傷つける酷いジョークを授業中に言う事に耐え兼ねた私は、この先生が放った他文化への批判を記録していった。

UAE出身のバックバックの彼を含めて、クラスに中東出身の生徒がもう一人いたが、2人とも授業中ずっと下を見て耐えている様子だった。ある日私は彼らに授業後声をかけた。

『先生9・11後から頭おかしくなっているみたいで、改善する様にも思えないから大学にレポートしようと思ってる。アメリカ人生徒も何も先生に抗議しないし、あなたたちのためというより、私がこんなクラスに居たくないから』

すると二人はびっくりした様に私の顔を見て、

『心配してくれてありがとう。でもこの状態だと誰も相手にしてくれないと思うし、アメリカ人じゃないあなたが文句を言っても何も変わらないと思う。』

と日々肩身の狭い思いをしているのだろう、目に涙を浮かべていた。

その涙を見た私はその足でそのまま大学の国際交流課へ行った。知り合いのアメリカ人スタッフに話がある、と伝えアメリカ史のクラスで起こっている事をメモを見せながら説明した。

そのスタッフ(バレリー)は私の話を真剣に、そして悲しそうな目をして聞いていた。次の日に大学の偉いさんとバレリー、そして二人の中東出身の生徒も呼ばれ個別で話をしたのを覚えている。それから間も無く、バレリーからアメリカ史の先生は休職処分になったと言う報告があった。

交代したアメリカ史の先生は『人間はみんな同じ!世界各国みんな仲良くならないと!』と言う正反対のタイプの人で、その日から正反対の視点からアメリカ史を学ぶことになった。

その日の授業に来ていなかった中東出身の二人の生徒は、授業後私を外で待っていた。二人のお友達か家族だか他にも数人いて、私は彼らに囲まれバラの花束とカードを渡された。困惑していた私にバックパックの子が言った。

『アメリカは今僕たちにとって危険な場所なので、学期途中で本当に残念だけど国に帰ることになったから、サヨナラを良いに来たんだ。』

なんだか訳が分からないまま皆にお別れを言って、一人になってから外のベンチに座りもらったカードを読んだ。

『この大変な時に僕たちの見方になってくれてどうもありがとう。本当に感謝しているし、他の国の友達が一人でも僕たちの事を考えてくれた事が嬉しかった。このことは一生忘れません。』

なんとも説明の出来ないもっと何か出来たのではないかという悔しさと、彼らに対しての同情、そして大統領をはじめとする『正義の国アメリカは絶対に勝つ!』という単純すぎる米国外交への不安が入り混じり涙がボロボロ出てきた。

そして早くもBush大統領は9・11の次の日にWαr on Terrorの宣戦布告をする。

9・11を境にアメリカは変わった、が今ではそれがニューノーマル。昔学生の頃、初めてアメリカに旅行に来た時のサンフランシスコ空港で完璧な白い歯のお兄さんに最高の笑顔で言われた”Welcome to America!”とは打って変わって、今では靴まで脱いでチェックを受ける様になり、セキュリティーはしばしば外国人を卑下する様な目線で審査する。

記念日の今日、平和について考える。アメリカが悪とレッテルを貼ったアフガニスタンやパキスタンで20年以上人々の生活向上に向けて活動を続けていた中村医師のドキュメンタリー(ツインタワーのあの映像から始まる)の冒頭を思い出す。

”緊急の電話があり、米国でのテロ事件を伝えられた。テレビが、未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。”

戦争は世代を超えて憎しみを産む。

私がこの国に来てから19年、アメリカの象徴である自由の女神が掲げる涙が出る様な激励のwelcomeから離れたイメージの国になって来ている様に感じざる終えない。

外国人/移民に対しての意見をはじめ、マスクをするかしないかの意見までこの国では真っ二つに分かれている。大統領選挙を11月に控え、BIDENやBlack Lives Matter! のサインが庭にある家があり、TRUMP2020の旗を貼っている家もある。

画像2

醜い対立がめまぐるしくメディアに流れる毎日だが、米国に住む日本人として厳かで底の無い優しさと使命感に溢れた中村医師のメッセージと生き様を、しっかり掴んでおきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?