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心は磨くと鈍くなるのか。HSPとカナリヤ

こんばんは。尊敬する人に文章をほめてもらって嬉しい夜です。

今のマイブームは、ご存知、生きていくために心を鈍くすべきか否か、問題でございます。(知らんがな!)

仕事をやめるくだりで、色んな人がアドバイスをくださり、精神を鈍くする、とか、人の話を聞かない、といった方法を伝授された。なるほどー、と思う自分と、で、実際できんの?という自分がおります。

私は仏になりたい。と思う時がしばしばある。悟ったら楽なんやろなー、と。しかし悟りは一回じゃないっぽいし。ずっと楽でもなさそう。

と思いながら悟りへの憧れを捨てられず、「反応しない練習」を読んで、あらゆる悩み消えるんかー、やってみようー、と思ったけれど、たどり着いた先の禅僧ってアプ子なのか?と友人に指摘される。

私は今流行り?のHSPってやつに分類されると思う。Hyper Sensitive Person、と思ったらHighly だった。ハイパーだったらエスパーみたいでかっこよかったのに。で、日本語で、超敏感人間。

そりゃもう色んなものに反応してしまって、大体うるさい。音はうるさい、視界もうるさい、人の言葉もうるさい、存在感もうるさい。家族もうるさい。ああ、1人になりたい。という感じ。山の奥に行くと落ち着く。

しかし、困ったことに人が好き。これはさらにHSS型になるらしい。High Sensation Seeking、で刺激追求型。刺激追求するのに敏感だから、もうややこしいいややこしい。自分でつっこんで行って疲れて帰ってくる。

HSPに戻るんだけど、私は、HSPは鉱山のカナリヤ的能力があると思っている。この組織やばいぞ、とか、この体制のままいくとやばいぞ、的な。カナリヤは呼吸器が特殊で毒性への反応が早いらしいのだけど、同様にHSPも、他の人が気づかないリスクを感じ取るような。

で、リスクが軽いまま過ぎ去ればいいけど、さらに拡大する危険性がある場合には、HSPが騒ぐことで早期に見える化して、対処できることもあるかもしれない。

だから、HSPは感じやすくてええんじゃないだろか。色んな人がいて良いわけだし、感じ方の多様性も、社会全体としてはリスクを分散させるだろう。

ということで、やはり私は超敏感人間をやめるわけにならない。と、使命感を出してみたけど、結局無理なんでしょうな。

先日紹介した泉谷閑示さんは、日頃は頭が心の蓋をしていても、心が頭に反抗したときに、身体の不調があらわれる、というような解説をしている。

心が感じることを大切にする、というのが頭と心のバランスをとってヘルシーに生きるってことなんかな。本当の自分ってのは、心に正直に生きることなんかな。いいな、いいな、人間っていいな。

科学的に見ると、本当の自分なんて存在しないイリュージョンなんじゃないかと思われるけれど、心は、長年生きていく中で時間をかけて、自分の中に作りあげられている。いや、時間軸だけじゃなくて、強烈な出来事によっても形作られる。生きるためには、心と折り合いをうまくつけていく必要はあるんだろう。

で、冒頭のテーマに戻るけれど、心をもし鈍磨できたとして、そうすると人の痛みにも鈍感になってしまって、人を簡単に傷つけてしまう。と言った人もいる。人を傷つけると、結局はその痛みは自分に返ってきて苦しいから、鈍磨するのは答えじゃないと。

だからやっぱり鈍磨しない方がいいんかな。ていうかやっぱりしたくないんかな。言い訳を正当化しようとしてるんかな。

生きていくことは傷つくことが多いけど、傷が多い方が、人の痛みに寄り添える気もする。人に寄り添えたら、絆も深まって、幸せな人間関係に恵まれる。それって、風が吹けば桶屋が儲かる3段論法感もあるけと、傷つくことも悪くない。と思いたい。

Radwimpsさんも、「嬉しくて泣くのは、悲しくて笑うのは、僕の心が僕を追い越したんだよ」と言うてる。これは、感情豊かに生きることが自分を超えていけるっちゅうエールじゃなかろうか。

ちなみに君の名は、ストーリーの厨二病感があんまり共感できんくて好きではないけど、数々の名曲の効果と絵の美しさが盛り上げてきよるなあ。と感想文を挟んでみました。

HSPの生きづらさ、みたいなのが取り上げられがちだけど、個性にはメリットもデメリットもあるはず。自分の個性を愛して、役立てられる場所を探して行こうやないか。

今夜も読んでいただきありがとうございます。そんなあなたには、クリスマスセールの残りが年末セールと名を変えてすごいお得な買い物ができるじゅもんをお届けします。ホナ!

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