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「好き」には「本当」と「本当じゃない」があるという | 子どもの範疇 第5回

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 帰りのエレベーターに乗って、4、3、2……と扉の上にあるライトが順に点滅していくのを見ていたら、体中のうぶ毛が逆立ってそのまま浮き上がるような奇妙な感覚を味わった。その感じはマンションを出たあと、しばらくの間続いていた。

 「マンガと距離を置く」とか「少し考えさせてほしい」とか、南さんの考えることや言うことはまるで大人みたいで驚いてしまった。「本当にマンガが好きか」どうかについて考え込むなんて翠子には想像もつかず、「好き」に「本当」と「本当じゃない」があるというのは思いもよらないことだった。

 翠子は本気でマンガ雑誌をつくりたいと思っているし、南さんにマンガを描いてもらいたいという気持ちも真剣だ。しかし、翠子の考える本気と南さんのお母さんが言う本気というのは、ぴったりと重なるものなのだろうか。

「中途半端」や「本気」という言葉から連想されるのは、音楽の先生だった。三十代の男の先生で合唱クラブの指導をしていて、クラブに大きな大会の賞を何度も取らせていた。その先生が音楽の授業中にいつも「中途半端にやるなら歌わないほうがまし。本気でやれ」と言うのだった。

 先生の言うことを整理すると「本気>歌わない>中途半端」という式が成り立ったけれど、さすがに「歌わない」が「中途半端」よりもまし、というのは言葉の綾だということはわかる。とにかく本気で歌うことが求められていて、どうやらそれは真面目、とか、ふざけない、とも少しちがうようだったので、翠子はよくわからなくなってしまった。

 「歌の上手下手は別にして、後藤はいつも本気で歌ってるぞ。みんなも参考にするように」と先生に褒められた後藤さんは、照れながらもクラスの前で堂々とお手本を歌ったのだった。後藤さんの歌声はやや音程に不安があったものの、歌のところどころで目を閉じたり、体を横に揺らしたり、逆に縦に伸び上がったりして、情感をたっぷりと表現していた。普段とてもおとなしい後藤さんのソロだっただけに、いつもふざけ気味の男子たちが茶化すような空気にもならず、音楽室はしんと静まり返った。こういうことなのか、と翠子は思ったが、なにかひたすらに気まずさを感じるばかりだった。

 自分がいくらそのつもりでいても、人がそうだと認めないと「本気」ということにはしてもらえないんじゃないかという不安がそのときから翠子の胸に居ついた。大人だったら、自分は本気なんだ真剣なんだと胸を張って言うことができるかもしれない。でも自分たちのような子どもの場合、「本気」「中途半端」と書かれた旗を両手に持った大人が審判のように目の前に立っていて、その審判の基準を教えてもらうこともなく、大人にしかわからない理屈でどちらかに振り分けられてしまうんじゃなかろうか。

 南さんのお母さんがどんな人かはわからないけど……。家に着き、玄関で靴を脱ぐまでの間にそういうことを少し考えて、頭の中がとろりと重たくなった。

 南さんからの返事は保留になってしまったが、こずちゃんとおりっぺはマンガへのやる気を見せていた。

 マンガ雑誌の話をして以来、こずちゃんは床から五センチほどふわっと浮き上がったような雰囲気になった。マンガの主人公を中学生か高校生にしたいと言っていたから、小学生という身分からどうにか自分の意識を引きはがして、頭の中にティーンの世界を構築しているようだった。

 二つにくくっていた髪型もストレートに下ろすようになったし、筆箱の文房具もキャラクターのついていないシンプルなものになった。なにより教室にいるときの口数が少なくなった。そんなふうに一足飛びに十五歳の思春期に突入してしまったこずちゃんに対して、クラスの男子たちはちょっと緊張しながら接するようになった。

 おりっぺは休み時間のたびに隣のクラスから翠子のもとにやってきた。
「あのさあ、マンガのことなんだけど……」とアイデアについて逐一相談してくる。自由帳にキャラクターの絵や設定を描いて見せてくれたと思ったら、次の休み時間にはその上に大きくバツを書いて泣き出しそうになっている。

「さっきはいいと思ったんだけど、いま見たらつまんなく思えて……」

 翠子が「おもしろいよ」と言って懸命になだめると、休み時間が終わるころには立ち直って帰っていく。ふだんのおりっぺはちゃきちゃきとした性格だったけれど、どうやらプレッシャーには弱いようで、そういう面はこれまでに知らなかったものだった。

 そうして少しづつ、二人の中にマンガの世界が組み立てられている気配だった。翠子は翠子で、南さんのことが気がかりだったけれど、それはひとまず少し棚上げして、雑誌というものについて考えていた。

 いろいろなマンガを集めてホチキスで綴じたら雑誌になるのかといえば、そうなんだろうけど、それだけでなく「本物の雑誌」のようにしたかった。雑誌を雑誌たらしめているものは何なのか。翠子は手持ちの『りぼん』を眺めて、あらためて研究した。マンガそのもののほかに、目次や付録、応募者全員サービス、おたよりのコーナー、まんがスクールなどがある。手作りの雑誌で実現できそうなところも、とても無理そうなところもあった。
(つづく)

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