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これから一緒に本をつくろうよ | 子どもの範疇 第13回

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 翠子は自転車に乗って本屋兼文具屋に向かっていた。日曜の午後だった。自転車の前かごには手提げバッグが入っていて、中には表紙の原稿があった。題字やタイトルのレタリング文字とイラストを組み合わせてレイアウトしたものだ。

「橋本さんにマンガのマークをつくってほしい。それを表紙に載せようよ」と南さんに言われていたので、マークも描いた。学校の図書室にあった動物図鑑を参考に描いたアルマジロは、横を向いてしっぽにリボンをつけている。

 店の前に自転車を停めて書店兼文具店に入る。すいません、とレジにいる店のおじさんに声を掛け、コピー機を使いたいと言うと、店の隅にある大きなコピー機を作動させてくれた。

「使い方わかる?」と言われたので、うなずくと、じゃ、あっちにいるからとおじさんはレジに戻っていった。機械の蓋を開き、表紙の原稿をセットする。あきえさんのところのコピー機と機械がちがうのでもたもたしてしまう。レジのほうをちらりを見ると、おじさんは眠そうな顔で雑誌に目を通していた。それがどぎつい表紙の週刊誌だったので、翠子はあわてて目をそらした。

 最初の一枚はセットする向きを間違えて失敗してしまい、二枚目は印刷の濃度がいまいちだった。三枚目でようやくうまくいき、続けて数枚をコピーした。

 終わるとおじさんに声を掛け、ポケットのコインケースからコピーのお金を支払った。事前にメンバーから集めたお金だった。コピーや原稿を忘れないようにバッグに入れてから、帰る前に雑誌のコーナーに寄ってみると、マンガ雑誌が置いてあるところに新しい『りぼんオリジナル』があった。

   普段は『りぼん』しか買わず、増刊号はあまり読むことがなかったから、見てみたい気がした。ちょっとだけ、パラパラするくらい……と手を伸ばそうとしたところで、ガラスの窓から外を歩いているカップルの姿が目に入った。

 何かおかしな感じがした。女の人のほうの歩き方がとぼとぼとしていて子どもみたいなのだった。目を凝らすとそれは実際に子どもで、南さんだった。確認するまでもなく隣にいるのが誰だかわかった。翠子は手にした雑誌を棚に戻して、店を飛び出していた。

「南さん!」

 二人の背中に向かって呼びかけると、思ったより大きな声が出てしまい、近くを歩く知らない人が翠子のほうを見た。南さんは立ち止まったが、振り返るのをためらっているようだった。先に翠子のほうを向いたのは青木先生だった。青木先生はジーンズにパーカーという格好でもう先生という雰囲気ではなく、ただの大学生になっていた。

 青木はパーカーのポケットに両手を入れたまま、重たげなまぶたの下の目からめんどくさそうに翠子に一瞥をくれて、南さんに向かって何かひと言ふた言ささやき、そのまま二人で歩き去ろうとした。体のほうが先に動いて声を掛けてしまったけれど、そのあとどうするか何も考えていなかったので翠子はあせり、とにかく頭に浮かんだことをそのまま口にした。

「あのね、いまそこのお店でね、表紙をコピーしたんだ。カラーだよ。だからこれから一緒に本をつくろうよ」

 南さんが振り向き、ほんの一瞬、翠子と見つめ合った。この間、風邪を引いていたときみたいに紙のように白い顔をしていた。なにか薄い膜のようなもので隔てられているように感じられた。このまま知らない人にされてしまいそうで、翠子の喉は詰まってしまい、それ以上は声が出なくなった。

 南さんの口が動いて青木に何か言ったようだった。すかさず青木が南さんの腕をつかもうとした。それをすり抜けるようにして、南さんは翠子に向かって歩いてきた。

 南さんがうつむいて翠子のTシャツの裾をつかんだとき、離れたところにいる青木の舌打ちが聞こえたような気がした。南さんを店の前の自分の自転車を停めたところまで連れていく途中、少しだけ振り返ると、その場に立ち止まったままの青木と目が合った。通行止めの看板とか、大きな水たまりだとか、そういううっとおしい障害物でも眺めるような目つきだった。翠子はいまいる場所から一刻も早く離れたかった。

 自転車を引きながら歩く翠子のTシャツの裾を南さんはつかんだままだった。南さんのほうがだいぶ背が高いというのに、小さい子を連れている気になった。もう一度振り返ると、青木の姿は消えていた。無言のまま歩き続けて、二人は翠子の家にたどりついたのだった。

 南さんを自分の部屋に上げると、翠子は深く息を吐いた。いまにも青木が戻ってきて、南さんを連れ去ってしまうのではないかと恐れながら歩いていた。

 こういうときどんなふうに声を掛けたらいいんだろうと考えて、何も浮かばなかった。自分ががらんどうの洞窟になって、どうしようどうしようどうしようと反響しているだけのようだった。南さんは翠子の部屋の畳に座って、視線を落としたまま黙りこくっている。いくらでも黙っていそうだった。怒っているのだろうか、と不安になった。

 畳にくっついたお尻を引きはがすようにして翠子は立ち上がり、机の引き出しからホチキスを取り出した。テーブルの上にさっきのコピーした表紙とあわせてページごとにコピーしたマンガを並べていく。

「これをね、順番に束ねていって。それで端のところを三か所ホチキスで留めて」

 言われるがままに南さんは手を動かした。紙の束をテーブルの上でとんとんと整え、最後のホチキス留めまでいくと、同じことを最初から繰り返す。あっという間に五、六冊の冊子ができあがった。

 冊子にする作業もみんなで一緒にやろうかという話も出たけれど、たぶん一瞬で終わってしまうだろうから、という理由で翠子がひとりで引き受けていたのだった。ほとんど南さんにやらせちゃったな、と心苦しくなりながら、翠子は薄いピンクとライムグリーンの二巻きの紙テープを南さんに手渡した。

「何これ」

 南さんがようやく声を出したことにほっとしながら、「製本テープ」と翠子は答えた。高校の文化祭で使って余ったやつ、と言って兄がくれたものだった。どのように使うものか見せてみようと、翠子は冊子の背のホチキス留めの部分を包むようにテープを貼ろうとしたが、途中でテープがくっついてねじれてしまった。南さんはすぐに要領を得て、きれいにテープを貼っていく。南さんの額に落ちた一筋の髪の毛から、集中力がしたたり落ちるように見えた。

「これで、完成?」

 冊子を手に聞く南さんに、翠子はうなずく。

「表紙、きれいにできたね。『アルマジロ』の字もマークもかわいい」

 南さんははじめて表紙をまじまじと見た。作業中は自動運転のような状態で手だけ動いていたのだろう。翠子はうん、うん、と力を込めてうなずいた。

「読もうよ」

「前も読んだよ」

「完成したのはまだ読んでないでしょ」

 そう言って、翠子はできたての『アルマジロ』を手に畳に寝ころがる。南さんもちょっと迷いながら、横になって冊子を開いた。

 しばらくして、ふふ、と南さんの笑い声が聞こえた。おりっぺのマンガを読んでいるのだろうか。二回読んでもまだ笑えるなんてたいしたものだ。翠子は本を読むというより、眺めていた。本当に雑誌ができたと思って、その存在を確かめるように目を細めながらページをぱらぱらとめくったり、背の部分を手で撫でたりしていた。

「あのね」

 空中に投げ出されるように声がした。その一言ののち、しばらくの沈黙のあと、南さんは続けた。

「私のお父さんがさ、よその女の人と結婚して、もうすぐ赤ちゃんが産まれるんだって」

「うん」

「うちのお父さんとお母さん、前からね、けんかしたこともあったけど嫌い合って離婚したんじゃない、離れて暮らしてもずっと家族だから、って言っててね。それならいつかまた三人で暮らせるんだろうなって思ってたんだ」

「うん」

「でも、別の家のお父さんになっちゃうんだ、なーんだ、って。だったら最初からそう言えばいいのにって。いまどき、離婚してる家なんてめずらしくないのに」

 南さんの顔はテーブルの黒い足に隠れて見えなかった。翠子は雑誌を胸に置き、天井を見ながら南さんの声だけを聞いていた。

「金曜の夕方に電話がかかってきて、私、ひとりで家にいて、なんか出ないほうがいい気がしたんだけど出ちゃって。青木先生だった。いまの話をしたら、一緒に誰も知らない遠くへ行こうって言われて、またいつもの冗談だと思って笑ったんだけど、青木先生は全然笑わなかった。自分は本当は学校の先生になるつもりもないし、大学も辞めるから、日曜日に一緒に行こうって言われて、嘘だと思った。でも気になって待ち合わせ場所に行ったら、本当にいて、これから電車に乗って出発しようって。私、荷物を取りに一度家に戻りたいって言ったの。青木先生はしぶったけど、一緒に戻ることになって……そうしたら橋本さんに会って……」

「その……本当にどこかに行こうと思ったの?」

「わからない。全部冗談だったのかもしれないし、なんか変なんだけど、夢の中にいるみたいで」

 青木に遠くへ連れていかれる南さんのイメージが浮かんで、翠子は冷たい手で心臓をつかまれたように感じた。

「でもね、橋本さんに声を掛けられた瞬間にこわくなったの。それまで、青木先生って私の話を聞いてくれるやさしくてかっこいい人だったのに、急に、なんだろうこの人って思ったの。私、この人のこと全然知らないって」

 あそこで南さんに会えてよかったと思ってから、翠子はおそろしくなった。ちょっとタイミングがずれていたら、南さんは青木と一緒に電車に乗ってしまっていたかもしれない。電車で行ける遠くというのがどれほどのものか翠子には想像がつかなかった。遠くというのは距離の問題ではないのかもしれない。一度発ってしまえば、取り戻せなくなっていたのかもしれない。

「私ずっと、マンガの中にいるみたいだと思ってて。青木先生みたいに女子から人気がある大人の男のひとに私だけ優しくされて、つきあってほしいって言われて、マンガの登場人物に選ばれたみたいな気がした」

「うん」

「でもさ、考えてみたら、いまの私はマンガの中の人になりたいんじゃなくて、描く人になりたいんだよね」

「南さん」

 そのあとが続かなくなってしまった。青木をなじる言葉が浮かんで、でもそれを口にしたら南さんも傷つくのではないかという予感にとらえられて、結局行き止まりのようになってしまった。

「あのさ、明日、完成した『アルマジロ』学校に持っていこう。みんなに読んでもらおう」

 迷い道から抜け出して、ようやく言えたのはそれだけだった。

「……うん」

 少し間を置いての南さんの返事に、翠子は起き上がった。

「ごめん、ほんの少しだけ寝てもいい?」

 そう言って、南さんは寝ころんだまま目をつぶった。はじめはふりだけだと思って見ていたら、そのうち本当に寝息を立てはじめた。きれいな寝顔に窓からの光がわずかに落ちて、額から頬にかけて金色の模様を点々とつけていた。その窓に目を向けると、刷毛でそっと撫でたような雲が空に浮かんでいた。いつの間にか今年の梅雨はもう終わっていたのだった。

 十分か十五分くらいして目覚めた南さんは、頬に畳の跡をつけながらもすっきりとした顔をしていた。翠子は自分用を除いた『アルマジロ』を南さんにすべて押しつけて、明日、南さんからこずちゃんやおりっぺに配ってほしい、とお願いした。
(つづく)

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