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娘は母をいかに殺す/殺さないのか「水星の魔女」

「父殺し」という言葉がある。「オイディプス王」「カラマーゾフの兄弟」「スターウォーズ」など、物語の中で繰り返し描かれてきた「息子が父親を殺す」というモチーフを指す。この言葉に、女の自分はどこか他人事というか、蚊帳の外のような感覚を抱いてきた。息子が父親を殺すなら、娘は母親にどう立ち向かうか、という物語はあまりに少ない。父親が息子に立ちはだかる壁なら、母親と娘というのは重なり合うベン図の二つの円のような関係で、どこからが自分でどこからが相手かわからないような曖昧な領域がある。娘から母親への反発は、すぐさま相手への同情に取って代わってしまう。

「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の主人公スレッタの母親プロスペラは、身体補助のためのヘッドギアで素顔を隠している。つまり、お母さん仮面である。彼女は仮面の下で陰謀と策略を張り巡らせている。こんなお母さん像、なかなか見たことがない。過去に因縁を持つアンチヒーロー的なプロスペラの暗躍に、彼女が画面に映るたびについ心躍る自分がいた。

プロスペラは母性あふれる柔らかく優しい言葉で娘のスレッタを励まし、コントロールし、ガンダムに乗せる。娘は母親を崇拝といっていいレベルで慕っていて、母の言いなりである。ネットでプロスペラが「逆・碇ゲンドウ」と呼ばれているのをみて、なるほどと思った。碇ゲンドウにプロスペラ並みの懐柔力があれば、シンジくんもすすんでエヴァに搭乗していた。

ストーリーが進むにつれ、スレッタにはエリクトという「姉」がいることが明らかになる。エリクトは自分ひとりでは生きられない「手のかかる子供」である。スレッタはエリクトの生存を手助けするために生まれた存在なのだ。このあたり、現実にきょうだいの世話役になっているヤングケアラーを想起させて、なかなか生々しい。プロスペラはことあるごとに「娘たちを愛している」と言葉にする。そこに嘘はないが、その愛には序列がある。彼女の一番はどうしても、不憫な長女のエリクトなのだ。ここに「どの子供にも平等に愛情を注ぐ」という母親神話を破るリアリズムを感じる。おそらく現実にだってよくある話なのだ。

「水星の魔女」では、これに限らずさまざまな親子関係が描かれた。「クソ親父」と反発しながら行動パターンが父親に似てしまうミオリネ、「オイディプス王」さながらに父殺しを果たしてしまうグエル、シャデクが義父に向ける尊敬と裏切り。親子ではないが、ペイル社の4人のCEOと、跡取り候補のエラン(真)の関係もおもしろかった。ラストのエランはうるさい母親たちに舌を出す子供のようだった。

最終回、主人公のスレッタは「私はお母さんを肯定します」と母プロスペラに告げる。プロスペラは「あなたに何が」と苦しげにつぶやく。娘が母親を肯定する。それは、母から一方的に褒められ認められる関係から抜け出て、一人の人間として相手を自分の価値観から評価するようになったということだ。「父殺し」のように劇的ではないが、娘の自立を静かに揺るぎなく描いたシーンだった。

ラスト、老け込んだ姿で車椅子に乗るプロスペラが映る。プロスペラ自身が語ったように死が近いことをうかがわせる。わざわざ殺すまでもなく、母親はいずれ老いて娘よりも先に死んでいく。

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