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翠子、マンガの筆を折る | 子どもの範疇 第1回

マンガはもう描かないことにした。そう兄に告げると、「筆を折るってこと?」と言われた。それで翠子は「筆を折る」という言い回しをはじめて知った。 

 兄としゃべるのは久しぶりだった。高校二年生の兄が四月から予備校に通いはじめてもう一ヶ月以上が過ぎていた。予備校の授業のある日だけでなく、それ以外の日も自習室で勉強をしてから家に帰ってきて、八時過ぎとか九時過ぎに夕飯を食べる。そんなふうに小学五年生の翠子と生活リズムが異なることから、家の中で顔を合わせることはあっても、二人で話すということはあまりなかった。 

 今日はたまたま兄が早く帰ってきたので、他県に単身赴任中の父を除いた母と兄と翠子の三人が夕飯の食卓にそろった。それで兄が翠子に最近マンガの新作を描いてるのかとたずねたのだった。 

「でも好きでしょ、マンガ。前見せてもらったやつ、おもしろかったよ」 

 夕飯のアジフライをざくざくと食べながら兄が言う。皿に山盛りになったアジフライが次々と片付けられていくのを見て小食の翠子はあっけにとられる。「ほら、ソース垂れてる」と母が言った。 

「うーん、あのね、マンガはもうよくなった」 

「ふーん」

 口に出すことで筆は真ん中からぽきりと音を立てて折れた。続けて何か言われるかと翠子は少し身構えたが、兄はたくあんをかじりながら、「あれか、通過点ってやつか」とつぶやいて、お茶をすすっただけだった。その姿が父によく似ていて、翠子はぎょっとする。自分と同じように母から産まれたはずなのに、母の要素をお腹に置いてきてしまったみたいだった。 

 高校生の兄がいる、と言うと、やけに興奮した様子で目を輝かせるタイプの女子たちがいる。四年生のとき、そういう子たちと同じ班になり、班ごとに発表する社会科見学の新聞づくりのまとめを自分の家でやることになってしまった。 

 リビングにいた兄の姿を目にした女子たちは、思っていたのと違う、という顔になり、すっと体温が下がったようだった。翠子の部屋で模造紙に調べたことをまとめている最中、「橋本さんのお兄さんって、なんか高校生じゃないみたいだね」「うん、ふっくらしてて貫禄があって、なんか奥さんと子どもがいそう」「でもいい人そうだよね」と、彼女たちはぽつりぽつり感想を漏らした。

 そのことをあとで兄に伝えると、「う、そのコメント、心が痛い」と胸を手でおさえて顔をしかめた。兄のそういう身振りはオタクというわけでもないのにちょっとそれらしく見えるのだった。 

「マンガやめたら何するの?」 

 この話題はもう終わったと思っていたら、満足そうにお腹をさする兄から聞かれた。

「うーん、ええと、マンガ雑誌をつくる」

 そんなこと考えたこともなかったのに、思ってもみない答えが自分の口からこぼれるように出てきた。

「なにそれ?」

 きょとんとする兄を前に翠子が「ええと」と口ごもる。すると、ふだんきょうだい同士で話しているとあまり口を挟まない母が話を継いだ。

「マンガ雑誌をつくるって……編集者みたいな?」

「そうそれ、編集者」 

 降って湧いた編集者という単語を、手をのばしてサッとつかまえるように翠子は言った。手の内にとらえてみると、それがずっとやりたかったことだとわかった。やりたいことを指し示す言葉がこの世にちゃんと存在するということにうれしくなって、もう満腹と思っていたのにアジフライを一枚取って大きくかじっていた。

 マンガを描くようになったのは四年生のときだった。その頃から少女マンガ雑誌を買うようになって、読んでいるうちに自分でも真似して描くようになった。 

 買っているのは『りぼん』だったが、仲のいいこずちゃんは『なかよし』派、おりっぺは『ちゃお』派だった。それぞれの派閥で争うということもなく、三人で回し読みをして全部の雑誌を読んでいた。 

 発売日に家からそう遠くない、駅のそばにある本屋兼文具屋に行くと、足は迷わずにマンガ雑誌のコーナーに向かう。手に取った『りぼん』をぱりぱりと開いて真新しいインクの匂いを吸い込みたくなる気持ちを抑えて、レジに進む。ビニールの袋に入れてもらった雑誌をかかえて、真っ直ぐに帰った。 

 家に着くと、じりじりする気持ちをなだめて、おやつと飲み物を用意してから雑誌を開いた。一番好きな「ときめきトゥナイト」から読もうかと迷うけれど、占いみたいにでたらめにページを開いて、出てきたマンガから読む。新しいマンガの匂い。薄く色のついたわら半紙みたいな紙に青やピンクのインクで印刷してあるのがなんだかよかった。

 そうして雑誌全体を一周読んで、二周目、三周目……と繰り返し読んで、次の号の発売日が近くなる頃には十周近く読んでいる。マンガの登場人物たちのセリフはすっかり暗記してしまい、ぱりぱりだったページもすっかりやわらかくなって、雑誌全体が膨らんでいた。 

 翠子がはじめて描いたのは「とんとんトンカッチ」というマンガだった。本当は壮大なファンタジーストーリーを描きたかったけれど、絵がうまくないので八頭身のキャラクターや描写力が必要なシーンを描ける気がせず、なしくずし的にトンカチや工具を擬人化した二頭身キャラクターが出てくるギャグマンガになってしまった。

   レポート用紙に描いてホチキス留めしたマンガはクラスではそこそこ回し読みしてもらった。「ギャグは『コロコロ』以外認めねえ」と公言していた男子が「おもしろかった」と言ってくれたときには、わりに誇らしい気持ちになった。 

 けれども何巻か続けて描いていくうちに、自分はマンガのはじめにつける「前回までのあらすじ」とか「キャラクター相関図」を書くのが一番おもしろい、ということに気づいてしまったのだった。「あらすじ」や「相関図」は本物のマンガ雑誌みたいに要領を押さえて書くことができるのに、自分のマンガそのものはあくまで小学生の描く下手なマンガだ、ということには歯がゆい気持ちを覚えた。

   もっとマンガが上手な人はたくさんいる。たとえば、こずちゃんやおりっぺがそうだった。

 もともと三年生で同じクラスになったときに、みんな絵を描くのが好きだということで三人組になった。こずちゃんとおりっぺは翠子とちがって小学生離れした筆力があったから、マンガを描いてもクラスの垣根を超えて広く回し読みされていた。二人のうまさに落ち込まなかったのは、翠子が本気でマンガ家になりたいと思っていなかったからだろう。

 五年生になって、こずちゃんとは同じ組のままで、おりっぺとは別のクラスになってしまった。それでもまだ三人は仲がよくて、放課後にだれかの家に集まっては一緒に宿題をやったりマンガ雑誌を回し読んだりして過ごしている。

 こずちゃんやおりっぺにマンガを描いてもらって雑誌をつくりたい。突如として芽生えたその気持ちは一年前、自分でマンガを描こうと思ったときよりもよほど強いもので、翠子はなにかを持て余すかのように布団の中でごろごろと転げた。 

 自分の部屋で一人で寝るようになったのは二年生のときから。五年生になってからは、常夜灯をつけずに部屋の電気を全部消して寝ている。それでも、カーテンの隙間から夜の薄青さがにじみでてきて、真っ暗にはならない。

 自分ではすっかり寝ついたつもりでも、薄い眠りの表面をゆるゆると滑っていただけだったらしく、いつの間にか目が覚めてしまっていた。枕元の時計の針は文字盤に溶け込んでしまって時間を読み取ることができない。ひょっとしたらもう十一時か十二時を過ぎているのかもしれなかった。

 世界中で自分だけが起きていて、自分だけが頭の中の計画を知っている。普通だったら夜中に目覚めれば心細くなるのに、ちっともそんな気にならなかった。考えを自分ひとりの中におさめていると、その計画がどんどん膨張して、頭の中ではち切れるとか、摩擦で火を吹くとかしてしまいそうだった。 

 窓の外から車のエンジン音が聞こえた。こんな夜中にも車を運転してどこかへ向かっている人がいる。そう考えると、翠子はすぐにでも明日の朝に移動したくなって、掛け布団の端をつかんでしっかりとまぶたを閉じた。 
(つづく)

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